こうもり (オペレッタ)
テンプレート:Portal クラシック音楽 『こうもり』(テンプレート:Lang-de)は、ヨハン・シュトラウス2世が1874年に作曲し、同年4月5日にアン・デア・ウィーン劇場で初演された全3幕のオペレッタである。
目次
概要
- 原作:ロデリヒ・ベンディックスの喜劇『牢獄』(1851年)に基づいて、アンリ・メイヤックとリュドヴィック・アレヴィが書いた喜劇『夜食』(1872年)
- 台本:カール・ハフナーとリヒャルト・ジュネがメイヤックとアレヴィの原作を手直しした
- 作曲時期:1874年
- 初演:1874年4月5日、アン・デア・ウィーン劇場
数あるウィンナ・オペレッタの中でも最高峰とされる作品で、「オペレッタの王様」ともよばれる。ヨハン・シュトラウス2世特有の優雅で軽快なウィンナ・ワルツの旋律が全編を彩り、その親しみやすいメロディーは全世界で愛されている。なお、物語が大晦日の晩の出来事を題材にしていることから、ウィーンをはじめドイツ語圏の国々の歌劇場では大晦日恒例の出し物となっている。
歌の配分が比較的均等(合唱も含む)なため、華やかにオールスターを並べることが可能である。ソロパートは8人だが、三重唱を1曲歌うだけの端役であるブリント弁護士を大歌手のワルデマール・クメントが歌った全曲録音(アーノンクール)も存在し、次に(歌の上では)軽い役であるフランク所長は高名なベテランが歌うことが慣例化している。また、ドラマ上は脇役のアデーレに最も多くソロが用意されているため、主役級のロザリンデよりも格上のスターがあてられる(1986年クライバー指揮のライブなど)ケースも珍しくない。
ウィーン国立歌劇場では毎年年末年始に公演が組まれており、大晦日の国立歌劇場の『こうもり』と年始のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤー・コンサート(大部分がシュトラウス作品)がウィーンでの恒例行事となっている。オーケストラは各70人前後のニ手に分かれて、二つのシュトラウス・プログラムに従事する。ドイツ圏の他の歌劇場でも(一部外国でも)これにならっているところがある。
もっとも、かつてのウィーン国立歌劇場(ウィーン宮廷歌劇場)は格式を重んじてオペレッタの上演は原則的に行わなかったため(それ以前にはシュトラウスの『騎士パズマン』をオペラという名目で初演しており、また1934年にはレハールのミュージカルに近いオペレッタ『ジュディッタ』も初演している)、1894年(初演より20年後)にシュトラウスのデビュー50周年を記念して、宮廷歌劇場の年金機関運営委員会の主催で上演されたのがはじめてである。その後、当時の宮廷歌劇場総監督グスタフ・マーラーによって正式にレパートリーとなった(1897年)。
オペレッタの作曲に至る経緯
『こうもり』が誕生するきっかけとなった人物は2人いる。当時パリで大成功を収め、「シャンゼリゼのモーツァルト」とよばれていたジャック・オッフェンバックと、シュトラウスの最初の妻イェッティである。オッフェンバックは1865年、ウィーンに自作の『美しきエレーヌ』を引っさげてやってきた。同作品はウィーンで大変な成功を収めた。シュトラウスとオッフェンバックが初めて会ったのもこの頃のことである。オッフェンバックはシュトラウスに「あなたはオペレッタを作曲すべきだ」と言ったという。しかし、シュトラウスはそうしなかった。なぜなら、既にウィーンではフランツ・フォン・スッペの作品が大成功を収めており、自分がオペレッタの世界に入る余地が無いと考えていたのである。そういったこともあって、彼がオペレッタに手を染めることはなかった。
そんなシュトラウスに転機が訪れたのは、1869年になってからである。前年『美しく青きドナウ』を発表して大成功を収めていたシュトラウスに対して、劇場の支配人たちが、いずれシュトラウスが劇作品を発表しだすと考え始めたのである。その中の一人にアン・デア・ウィーン劇場支配人マックス・シュタイナーがいた。シュタイナーはシュトラウスの妻イェッティ(元女優で顔が広い女性でもあった)に夫にオペレッタ作曲を勧めることを依頼した。これを引き受けた妻は夫を説得し、最初のオペレッタの台本『ウィンザーの陽気な女房達』が渡され、作曲が開始された。この作品は、主役を誰が演じるかでプリマドンナ2人が激しく争った結果、これにうんざりしたシュトラウスが怒って、上演は頓挫した。
しかしシュタイナーは諦めず、次の台本『インディゴと40人の盗賊』を渡した。かくして1871年2月10日、シュトラウスのオペレッタ第1作『インディゴと40人の盗賊』はアン・デア・ウィーン劇場で初演された。この作品はある程度の成功を収めたものの、台本の不備が次第に観客に露呈されたことで、やがて上演打ち切りに追い込まれた。しかし、シュトラウスはオペレッタで成功を収めるという思いを捨てなかった。続いて1873年、オペレッタ第2作『ローマの謝肉祭』が作曲され、同年3月1日にアン・デア・ウィーン劇場で初演される。しかし、この作品は失敗に終わった。『こうもり』が誕生する前年のことである。
「こうもり」誕生と初演
アン・デア・ウィーン劇場の支配人シュタイナーのところに『こうもり』の原作となるアンリ・メイヤックとリュドヴィ・アレヴィ作の戯曲『夜食』(Le Réveillon)が届けられたのは、1874年のことである。シュタイナーはこの作品を、ウィーンの聴衆とシュトラウスに合うように台本作家のカール・ハフナーとリヒャルト・ジュネに手直しをさせてから、シュトラウスに渡した。一読して台本に魅了されたシュトラウスは自宅にこもり、一説によると6週間でこの作品を書き上げたという。そして1874年4月5日、『こうもり』は初演の日を迎えた。
『こうもり』は初演から16回上演された後、打ち切りとなった。しかしこれは失敗ではなく、財政上の理由で中止したのであって、作品自体の失敗ではなかった。その後、この作品はベルリンでも上演されて成功を収め、ウィーンで再演されたが、この時は見事な成功を収めた。
構成
- 序曲
- 第1幕 アイゼンシュタイン邸の居間
- 第2幕 オルロフスキー公爵邸の舞踏会場
- 第3幕 刑務所長フランクの部屋
登場人物
- ガブリエル・フォン・アイゼンシュタイン男爵(テノールまたはバリトン) - 金持ちの銀行家
- ロザリンデ(ソプラノ) - その妻
- フランク - 刑務所長(バリトンまたはバス)
- オルロフスキー公爵(メゾソプラノ まれにカウンターテナーやテノール) - ロシアの貴族で遊び人
- アルフレード(テノール) - 声楽教師でロザリンデの昔の恋人
- ファルケ博士(バリトン) - アイゼンシュタインの友人
- アデーレ(ソプラノ) - ロザリンデの小間使い
- イーダ(ソプラノまたは台詞)- アデーレの姉
- ブリント博士(テノールまたはバリトン) - アイゼンシュタインの弁護士
- フロッシュ(台詞) - 刑務所の看守
声域は厳密ではない。アイゼンシュタインは1970年代まではテノールが歌うことがほとんどだったが、近年はバリトンが定着している。オルロフスキーはバリトンや地声が歌った例もあり、異色の例として、カルロス・クライバーのCDにおけるロシア民謡歌手イヴァン・レブロフ(録音用のゲストであり、クライバーは実演ではファスベンダーやシュミットらのメゾソプラノ歌手しか用いていない)と、2001年ザルツブルク音楽祭でのフリージャズ系パフォーマーのデイヴィッド・モスが存在する。前者はシャリアピンの再来といわれた自慢の低音を封じて全て裏声、後者は音楽祭を騒然とさせた過激演出のもと、重症麻薬患者との設定で裏声と低音交互の歌唱であった。
楽器編成
フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ1対、打楽器(小太鼓:大小2個、大太鼓、鐘、スプローネ、トライアングル、シンバル、チューブラーベル)、弦5部(12型)
演奏時間
約2時間半(各50分、60分、40分)、これはごく普通の上演で台詞付だが、スコアには台詞はほとんど書かれていないで、演出家のその時の演出で行われ、しばしばアドリブも追加される。音楽は自由に挿入(couplets)されたり省略されたりする。他のウインナワルツから追加されることもよくある。これはオペレッタ一般の共通事項である。お笑いが必要なため、特に台詞はその都度お客を笑わせるために良く工夫される。
あらすじ
第1幕
ガブリエル・フォン・アイゼンシュタインの妻ロザリンデは困ったことに直面していた。一つは役人を殴ってしまったことで5日間の禁固刑を申し渡されてしまった夫。夫は刑の取り消しを要求したが、ブリント弁護士の下手な弁護でかえって刑期が延びてしまい、8日間の禁固刑にされてしまう。
それだけでも災難だが、家の前ではかつての恋人アルフレードが、毎日のようにセレナーデを歌ってロザリンデに思いを寄せている。しかも今夜ロザリンデの夫が刑務所に入るので、その留守にロザリンデと逢引しようと企んでいる。ロザリンデの方もまんざらでもないのだが、なにぶん世間体が気になるのでどうすることもできない。
そこへ夫の友人ファルケ博士がやってくる。博士はアイゼンシュタインに、「舞踏会が今夜、ロシアのオルロフスキー公爵邸で開かれる、そこで楽しんでから刑務所に入ればいい」と勧める。しかし「妻はどうする」と言ってためらうアイゼンシュタイン。博士は「奥さんなんて黙っておけばいくらでもごまかせる」といってそそのかす。すっかりその気になったアイゼンシュタインは、舞踏会に行くことを承知する。
博士が去ると、アイゼンシュタインは妻に「礼服を出して」と言う。「どうも夫は自分だけ楽しみにいくようだ」と察知した妻は、それなら自分も……と決心し、小間使いのアデーレに今夜は暇を出す。アデーレはおばさんの具合が良くないので今夜暇が欲しいと言っていたが、実は姉から手紙で誘われて、オルロフスキー邸の舞踏会に行くつもりだった。喜んで去っていくアデーレと夫を見送ったロザリンデ。そこへアルフレードが現れる。久々の浮気にロザリンデもまんざらではなく、2人は一杯飲みだす。ところが、あろうことかそこへ夫を連行しに来た刑務所長フランクが現れる。
夫がいないのに男を家に引き入れたことが知られるととんでもないことになる、と思ったロザリンデは、とっさにアルフレードを夫に仕立てる。後でどうにかするからというロザリンデに、アルフレードもアイゼンシュタインに化けることを承知して、身代わりに刑務所に連れて行かれる。
第2幕
オルロフスキー邸では華やかに舞踏会が行われていた。この家の主オルロフスキー公爵は、ファルケ博士に「何か面白いことは無いか、退屈だ」と言う。ファルケは、「今夜は“こうもりの復讐”という楽しい余興がある」と告げる。
やがて、女優オルガと名乗ってロザリンデのドレスを着込んだアデーレや、フランス人の侯爵ルナールを名乗るアイゼンシュタインが現れる。アイゼンシュタインは、女優オルガにむかって「家の小間使いにそっくり」と言うが、彼女の方は「こんなに美しく優雅な女が小間使いなわけがないじゃない」とアイゼンシュタインをさんざんからかう。
そこへ刑務所長フランクもシュヴァリエ・シャグランの偽名でやってくる。めちゃくちゃなフランス語で挨拶するフランクとアイゼンシュタイン。そして仮面をかぶってハンガリーの伯爵夫人に変装したロザリンデが現れる。
ロザリンデは、夫が刑務所に行かずに遊んでいる上に、アデーレが自分のドレスを着ていることに腹をたて、夫をとっちめることを決意する。一方、アイゼンシュタインもこの伯爵夫人に目をつけ、自慢の懐中時計を取り出して、妻とはまったく気が付かず口説きだす。この懐中時計を浮気の証拠にしようと考えたロザリンデは、言葉巧みにこれを取り上げる。そこへ人々がやってきて、仮面の女性の正体を知りたがるが、彼女はハンガリーの民族舞踊チャールダーシュを歌って「私はハンガリー人よ」と言う。
さらに人々はファルケ博士に「“こうもりの話”をしてくれ」と言う。3年前ファルケとアイゼンシュタインが仮面舞踏会に出かけた帰りに、アイゼンシュタインが酔いつぶれたファルケを森に置いて来てしまったときの話だった。そのため翌日、ファルケは日も高くなった中、仮面舞踏会のこうもりの扮装のまま帰宅する破目になり、それを見た近所の子どもから「こうもり博士」という変なあだ名をつけられたのだった。
こうして話の種は尽きないが、オルロフスキー公爵の合図で晩餐が始まる。夜も更けると舞踏会を締めくくるワルツが始まり、みんなが華やかに歌い踊る。やがて午前6時の鐘が鳴り、アイゼンシュタインはあわてて「出頭する時間だ」といって去っていく。フランクも刑務所に帰らなきゃとばかりに2人して会場を後にする。同じところに行くとは全く思わず。
第3幕
刑務所の中ではアルフレードが相変わらずロザリンデへの歌を歌っている。酔っ払った看守のフロッシュがくだを巻いていると、そこへ同じく酔っ払ってご機嫌なフランクが戻る。酔っ払い同士が掛け合い漫才をしていると、アデーレがやってきて「自分は小間使いだけれど女優になりたい、パトロンになって」と頼み込む。しかし、人が来るのでフランクはアデーレを留置場の空き部屋に入れる。
やってきたのはアイゼンシュタインだったが、既に牢には別人が入っているので驚く。そこで、アイゼンシュタインは様子をうかがうために、ブリント弁護士から服を借りて弁護士に変装する。刑務所を訪れたロザリンデは昨日の経緯を弁護士に話すが、怒ったアイゼンシュタインは正体を現し、妻をなじる。ところが妻はあの時計を取り出し、逆に夫をぎゃふんと言わせる。
そこにファルケ博士とオルロフスキー公爵が現われて言う。「昨日舞踏会に誘ったのは、すべて私が仕組んだこと。3年前の“こうもりの復讐”です」と。では浮気も芝居なのか、と安心するアイゼンシュタイン。アルフレードは「ちょっと実際とは違うけどまあいいか」とつぶやく。アデーレはオルロフスキーがパトロンとなって女優になることになり、最後はロザリンデの歌う「シャンパンの歌」で幕となる。
聴きどころ
- 序曲 - 劇中登場するメロディーをつないだもの。独立して演奏されることも多い
- 「舞踏会に行こう」(二重唱) - 第1幕でファルケ博士が舞踏会に行こうとアイゼンシュタインを誘う時の歌
- 「私はお客を呼ぶのが好き」 - オルロフスキー公爵が第2幕で歌う。メゾソプラノの名唱としても有名
- 「あの上品な物腰」(二重唱) - アイゼンシュタインがハンガリーの伯爵夫人に変装したロザリンデを口説く場面で使われる。別名「時計の二重唱」
- 「シャンパンの歌」(合唱) - 第2幕の晩餐でシャンパンをたたえる場面で歌われる。別名乾杯の歌
- 「第2幕のフィナーレ」 - 「こうもりワルツ」の名で有名。ワルツにあわせて全員が歌い踊る華やかなもの
- 上2曲はNo.11としてまとめられている。
- 「田舎娘をやるときには」(アリア) - 第3幕でアデーレが女優の才能をアピールする場面で歌われる。
なお、上記以外にも第2幕では、シュトラウス2世のポルカやワルツなどを使ってバレエが挿入されることもある。特に多いのがポルカ『雷鳴と電光』で、1970年代から1980年代の世界的定番であったオットー・シェンク演出版がその代表例である。シュトラウスによるオリジナルのバレエ音楽も存在するが、意外と踊られない。宴席の余興と称して第2幕にゲスト歌手達のガラ・コンサートを挿入する趣向も昔から多く、カラヤンの2度目の録音はスタジオ・セッションにもかかわらずこれを行っている(デッカ専属のスターを総動員し、実演なら3人同じ舞台に並べることが絶対不可能なほど豪華な顔ぶれである)。
メロディの再登場が少ないのが特徴で、序曲を除けばアルフレードの登場主題、フランクの登場主題、第2幕の「乾杯の歌」などほんのわずかであり、裏返せばメロディが非常に豊富である。
名演・名盤
オペラ・オペレッタふくめて最高傑作のひとつとされるだけに、数多くの名演・名舞台が重ねられてきた。グスタフ・マーラーが好んで指揮したのをはじめ、1907年には早くもベルリンでザイドラー・ウィンクラー指揮による全曲録音が行われており、これは『道化師』と並ぶ世界初のオペラ全曲録音である。LP初期には、クレメンス・クラウス、ヘルベルト・フォン・カラヤンといった巨匠がその名声にふさわしい優れた録音を残した。なかでもニューイヤーコンサートの創始者でもあるクラウスのウィーン情緒溢れる演奏は、今なお第一級の名盤として君臨している。カラヤン盤もウィーン・フィルとのステレオ再録音より評価が高い。カラヤン死去の際、『レコード芸術』誌の追悼特集でドイツ文学者の田辺秀樹は、膨大なその録音のベストにこれを挙げた。同時期には他にアッカーマンやフリッチャイにも優れた全曲録音がある。共に英語だが、オペラ録音自体が希少なオーマンディがメトロポリタン歌劇場を指揮してスタジオ録音とライブ録音を残しており、これだけ多数の大物指揮者が録音を残している演目はオペラでも数少ない。
1970年代にはカール・ベーム指揮で超豪華キャスト(ウィーン・フィルが演奏し、ウィーン国立歌劇場を代表する歌手が配役)を集めた映画が製作されている。ただし、オペレッタというよりも、モーツァルトからリヒャルト・シュトラウスに繋がるドイツ・オペラとしてとらえられた演奏と評された。しかし、オペレッタを上演する際もウィーン・フォルクスオーパーとの差別化を求められる(来日公演の『メリー・ウィドウ』等は面白みに欠けると酷評された)ウィーン国立歌劇場らしい格式的な伝統スタイルによる演奏の模範と言える。違和感を表明する人も少なくないとはいえ、こうした重厚な解釈にも耐えられるのも『こうもり』の一面には違いない。
カルロス・クライバーの数少ないレパートリーにも含まれ、1975年のスタジオ録音、1986年のライブ映像がある。ただし、いずれもバイエルン国立歌劇場によるもので、ウィーン国立歌劇場では一度もこの演目を指揮していない。最後の来日公演でも取り上げるよう懇願されたものの、固辞し続けた。ウィーン伝統スタイルとは一線を画した独自の『こうもり』はミュンヘンでのみ可能と考えていたのかも知れない(1989年のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートで序曲だけは指揮している)。
オットー・シェンクの演出は、ひとつのスタンダードとして各歌劇場で引っ張りだことなり、ベーム、クライバーのほか、グシュルバウアーがウィーン国立歌劇場に名歌手を結集したライブなども映像として残されている。この公演は指揮者・演出をふくめ、極力ウィーン生まれのメンバーを多く集めた点が、ベーム盤は全員をドイツ・オーストリア系で固めた布陣がひとつの特徴であり、国際化が進行した現在ではともに貴重である(なお、ほぼドイツ圏出身者で固めながらも、2人のヒロインだけについてのみ東欧系オーストリア人となっているグシュルバウアー盤、クライバーCD版、アメリカ人となっているクライバー映像版は、自国のソプラノが不足していたこの時期のドイツ・オペラ界を象徴している)。
ドイツ圏以外で最もシュトラウス好きの国といわれる英国でも、近年ウラディーミル・ユロフスキー指揮のグラインドボーン音楽祭公演が新しい名舞台として映像化されている。また、メルビッシュ湖上音楽祭ライブは、演奏や歌唱の技術水準はこれらと比較にならないにもかかわらず、それでも雰囲気や演出で十分に楽しさを発揮し得る(特にガタついていたオーケストラが白熱するにつれ味わいを醸し出すあたり)という点を証明した。
作品自体が優れているのに比べ名演が生まれにくい一部オペラとは対照的に、よほどのことがない限り水準以上の出来が保証され、なおかつ天才が手がけた場合は飛びぬけた名演にもなり得るという幸福な作品である。2010年現在、DVDの国内販売が累計8種(7つがドイツ語歌唱、1つが英語訳詞)というのもオペレッタではずば抜けた数字である。
日本でも、二期会が創立当初から日本語上演を繰り返し行って人気を集めてきたほか、ウィーン国立歌劇場とウィーン・フォルクスオパーによる硬軟2種類の「本場物」来演も行われている。序曲は、NHK-FMの『オペラ・アワー』のテーマ音楽として長年親しまれた。
バレエ
テンプレート:Main 1979年にローラン・プティ振付によりバレエ化されている。
映画
1962年にオーストリアで映画化された。ペーター・アレクサンダー、マリアンネ・コッホ主演。[1]
脚注
参考文献
- フランツ・エンドラー著『ヨハン・シュトラウス―初めて明かされたワルツ王の栄光と波瀾の生涯』 音楽之友社 1999年
- 小宮正安著『ヨハン・シュトラウス―ワルツ王と落日のウィーン』 中公新書 2000年
- 永竹由幸著『オペレッタ名曲百科』 音楽之友社 1999年