胡金銓
テンプレート:ActorActress 胡金銓(キン・フー、King Hu、1931年4月29日 - 1997年1月4日)は、主に1960年代から1970年代に香港・台湾で活動した映画監督。
生涯
1931年、北京にて鉱山技師の胡源深の子として生まれる。父・源深は京都大学への留学経験があった。胡家には多くの子供がいたため、キン・フーも子供の時から自立して生活する意思を固めていた。トニー・レインズによると、当時のキン・フーは左翼学生の一人であり、中国共産党が政権奪取した後、「政治状況を客観的に展望したいと考え」10代で単身香港を訪れたが、国境封鎖により大陸に戻れなくなったため、渡米の機会を窺っていた。
手先が器用で美術の才能があったため広告会社のデザインで頭角を現し、引っ張られる形で美術スタッフとして映画界入り。やがて俳優へと進み、香港の映画会社であるショウ・ブラザーズで監督デビュー。
作品の多くは武侠映画と呼ばれるアクション映画であり、京劇の要素を衣装や動作に残している。設定や美術にこだわる完璧主義であるが、その真価は計算された撮影による短いカットをつないでスピード感のあるアクションを見せる点にあり、モンタージュ理論の卓越した実践者である。このために同じシーンを距離や方向を変えてカメラを置き、照明を据えて何度もテイクをとっている。新東宝から招かれたキャメラマン西本正もキン・フーを支えた一人である。
室内の縦の構図を絶妙に生かした『残酷ドラゴン・血斗!竜門の宿』(1967年)などわずかな作品以外は日本劇場未公開だが、特殊効果に頼り勝ちなアクションが目立つ近年の映画と違いその作品には風格を漂わせている。多くの熱狂的なファンの中にはブルース・リーもおり、キン・フーとの仕事を熱望しながら遂に果たせなかった。『侠女』(1971年)により1975年にカンヌ国際映画祭の高等技術委員会グランプリを受賞している。また、『山中傳奇』(1979年)で第16回金馬奨最優秀監督賞を受賞している。
尚、香港映画界で神格化されるキン・フーの後継者を自認しているツイ・ハークがワイヤーアクションの技術を広めたが、彼はツイ・ハークの演出や人格について醒めた視線を送っている(スウォーズマン参照)。肉声を伝えるものではインタビューをまとめた映画評論家の山田宏一・宇田川幸洋の共著『キン・フー武侠電影作法 The Touch Of King Hu』がある。「香港の黒澤明」と呼ばれるが、映画祭で顔を会わせた両巨頭は『七人の侍』の雨中の戦いについて意見を交わしたと伝えられる。
近年、ショウ・ブラザーズ映画のDVDがシリーズ化されている。
監督作
- 大地兒女(1965年)
- 大酔侠(1966年)
- 残酷ドラゴン・血斗!竜門の宿(龍門客棧、1967年)
- 侠女(1970年)
- 喜怒哀楽(1970年)*オムニバス映画、第2話の「怒」を演出
- 迎春閣之風波(1973年)
- 忠烈図(忠烈圖、1975年)
- 空山霊雨(1979年)
- 山中傳奇(1979年)
- 終身大事(1981年)
- 天下第一(1983年)
- 大輪廻(1983年)*オムニバス映画、第1話の「第一世」を演出
- スウォーズマン/剣士列伝(1990年、途中で降板)
- ジョイ・ウォンの魔界伝説(画皮之陰陽法王、1992年)
出演作
- 厳俊監督『吃耳光的人』(1953年)/不良少年役
- 厳俊監督『金鳳』(1956年)/
- 婁胎哲監督『有口難言』(1955年)/助監督
- 李翰祥監督『雪裡紅』(1956年)
- 厳俊監督『金鳳』(1956年)/助監督
- 卜萬蒼監督『長巷』(1956年)/反逆少年役
- 卜萬蒼監督『三姉妹』(1957年)
- 李翰祥監督『江山美人』(1959年)
参加作
- 朱石麟監督『一板之隔』(1952年)/美術担当
- 陶秦監督『一家春』(1952年)/美術担当
- 李萍倩監督『都会狂想曲』(1952年)*未完
- 厳俊監督『吃耳光的人』(1953年)/美術
- 婁胎哲監督『有口難言』(1955年)/助監督
- 厳俊監督『金鳳』(1956年)/助監督
- アン・ホイ監督『客途秋恨』(1990年)/製作総指揮