聖餐論
テンプレート:複数の問題 聖餐論(せいさんろん)とは、キリスト教において、聖餐(聖体)の聖礼典(秘跡・機密)に関する教義上の捉え方に対する神学的な議論のことである。ここでは、各キリスト教諸教派における聖餐論の相違について述べる。
目次
カトリック教会と正教会との相違
カトリック教会と正教会との聖餐(聖体秘跡)論の捉え方はほぼ同じである。例えば、聖体の秘跡において、パンとぶどう酒の実体がキリストの肉と血の実体(正教会でいう実体はギリシャ語ではヒュポケイメノン(υποκείμενον:基体とも訳される))に変化し、ゴルゴダの犠牲が再現されるという概念は、古代教父時代から一致している。特に聖体秘跡の生贄の概念は、第1ニカイア公会議においても既に認められていた[1]。
しかしながら、カトリック教会のラテン的な文化的背景と正教会のヘレニズム的な文化的背景との相違が若干みられる。例えば、カトリック教会では、パンまたはぶどう酒のどちらかの形態(外観)のみ(単形態)の拝領で、聖体秘跡として有効であるのに対し、正教会はパンの使用とパンとぶどう酒の両方の(両形態)拝領でなければ機密(秘跡)として有効にはならない。また使用するパンについて、カトリック教会では無発酵パン(酵母なし)を使用を義務とし、正教会では発酵パンの使用を義務としている。ただし、カトリック教会では現教会法において無発酵パンの使用を義務にしているが、教理または秘跡として義務としているわけではない。カトリック教会でカノンとしている東西合同のフィレンツェ公会議では、東方または西方教会それぞれの教会法に応じて発酵パンおよび無発酵パンの使用を認める決議がされている[1]。
正教会の聖餐理解
正教会においてもカトリック教会と同様に、聖体礼儀の中で成聖されたパンとぶどう酒の中に、イイスス・ハリストス(イエス・キリストの中世以降のギリシャ語・教会スラヴ語読み)が実存すると理解する。しかしながら、カトリック神学のような聖変化によってパンとぶどう酒が聖体・聖血に『完全に』実体変化をしたと理解するのではなく、真のパンとぶどう酒であって、なおかつ真の聖体・尊血(聖血)であると考える。
もっとも、正教会の聖餐論を東西教会の分裂以降に発達したスコラ神学によるカトリック教会の聖餐論(スコラ神学の集大成者であるアキノの聖フォマ<トマス・アクィナス>による解釈)と比較したり、また更に後の時代になってカトリック教会への抗議(プロテスト)から始まったプロテスタントの神学を用いて解釈しようとしたりすること自体にそもそもの無理がある。カトリックやプロテスタント諸派の(それぞれの)聖餐論的理解に対して正教会の見解を問われれば聖変化を認めるという立場をとるが、それは『機密制定の晩餐』の席上でイイスス・ハリストスがパンとぶどう酒を手にとって、それぞれ自分自身のからだであり血であると宣言したから、パンであってハリストスのからだであり、ぶどう酒であってハリストスの血なのである。また、どの時点で聖変化が起こるのかについても、その問い自体がスコラ神学的発想によるものなので、正教会にとってはそのような問いかけ自体がナンセンスとも言えるのである。
強いていえば、主日の朝、信者が家を出るとき、その日の聖体礼儀に供される聖パンを携えたときから始まるとも考え得るし、聖パンに供されるためにパン生地が練られるときからとも、あるいは小麦などパンのそれぞれの原料がこの世に存在し始めたときからとも言える。そして、その成聖の過程は聖体礼儀の中において、捧げられたパンとぶどう酒を司祭が記憶(アナムネーシス)し、「なんじの聖神゜(せいしん:聖霊)をもって、これを変化せよ。」という聖神゜の降臨を願う祈り(エピクレーシス)を唱えることにより聖神゜が降臨して完成されると考えられる(ちなみにカトリック教会の神学では、エピクレーシスで聖霊が降臨して聖変化が始まり、聖体を制定する典礼文(制定句)が唱えられ、アナムネーシスされて完成すると考える)。
しかしながら、『使徒の教会』の継承を自認する正教会の信者にとって信仰上の大切なことは、イエスの言葉と教会の伝統に従ってイエスの制定された領聖(聖体拝領)等の各機密に与ることであり、神学的解釈や理解よりも伝統の中に息づき生き続けるいのちを受け、且つ継承していくことに正教信仰の真髄があるとも言える。
カトリック教会とプロテスタント教会との相違
カトリック教会と正教会は、パンとぶどう酒の実体がキリストの肉と血の実体に変化することを認めている。特にカトリック教会はトリエント公会議でパンとぶどう酒の外観(形態)のもとに、キリストの人性である肉と血と霊魂、および神性が現存すると説明した。これに対しルター派(シュマルカルデン条項)と聖公会(三十九箇条)は共在説、改革派教会においてフルドリッヒ・ツヴィングリは象徴説、ジャン・カルヴァンは臨在説(『キリスト教綱要』、ウェストミンスター教会会議)を唱え、カトリックの聖餐論に反対した。また、ゴルゴタの犠牲の再現、つまり聖餐の生贄に関する概念も、プロテスタント諸教派から否定されている。
プロテスタント教会の諸教派における相違
ルター派および聖公会は共在説、改革派は臨在説、メソジスト教会は象徴説をそれぞれ支持し、互いに教理論争が続いた。ただし、これ等の比較的教条主義的な教派は聖餐を礼典として認めており、福音同盟の会議において地上における礼典の永続性が確認されたが、救世軍のように礼典としての意味をも認めない教派も存在する。ただし、多くのプロテスタントにおいては、信仰を同じくする者の陪餐を認めている。さらに、教会員ではない未洗礼者の陪餐を認める教派も存在する(フリー聖餐)。
聖公会の聖餐理解
16世紀にローマ・カトリック教会と袂を分かって成立したイングランド国教会(のちの聖公会)が、その基本的立場を表明したものに、1563年に制定されたイングランド国教会の39箇条(聖公会大綱)がある。そして、その第28条では主の晩餐についてを規定しているが、「パンとぶどう酒の実体変化は聖書によって証明されることが出来ない。」として実体変化説を退け、「信仰を持って正しく拝領をする者には、パンはキリストのからだを、ぶどう酒はキリストの血をあずかることになる。」としている。ただし、この大綱は聖公会所属の全教会に求められる共通の信仰告白ではない。これを採用するかしないかは各聖公会管区の自主性に委ねられている(日本聖公会は組織成立時にこれの採用を見送っている。)アングリカン・コミュニオン(聖公会)の一致はシカゴ-ランベス四綱領を受け入れカンタベリー大主教の統治するカンタベリー管区と完全相互陪餐の関係にあることで承認されるが、シカゴ-ランベス四綱領では聖餐についてを洗礼とともにキリストが制定したサクラメントとして規定しているのみである。従って、パンとぶどう酒に関する理解は各管区ごと異なることもあり得る。とはいえ、やはり聖公会大綱で規定されている理解が聖公会神学における聖餐論の基本となってはいる。
日本聖公会の聖餐に関する見解も聖公会大綱の規定とほぼ同じで、パンとぶどう酒の実体変化は認めず、「相応しい信仰を持って拝領をするときキリストのからだと血を与ることになる」としているが、注目すべき点はパンとぶどう酒の形質やキリストの実存については触れていないところである。聖公会所属の教会には伝統的にハイチャーチ(高教会)と呼ばれるカトリックの信仰に近い神学を持つ教会とローチャーチ(低教会)と呼ばれるよりプロテスタントに近い立場をとる教会、そしてその中道的立場のブロードチャーチ(広教会)と呼ばれる教会があり、各々の伝統と牧師自身の神学的傾向によって聖餐理解もカトリックに近いものから他のプロテスタント教派に近い立場まで幅がある。従って、パンとぶどう酒の中にキリストの体と血が実存するとする共在説をとる立場から、パンとぶどう酒はそのままであるが、拝領する時その場にキリストが臨在するとする霊的臨在説を支持する立場まで幅広く存在する。そのため、敢えてパンとぶどう酒の形質やキリストの実存については触れず、様々な解釈を包含しうる表現をもって聖公会としての一致を図っているともいえよう。これを神学的な曖昧さと見て聖公会神学の弱点と捉える向きがある一方で、聖書の記述からはどの解釈も成り立つとして寧ろこれを聖公会の懐の広さと見たり、或いは聖書を重んじる姿勢の表れとして肯定的に捉えたりする向きもある。ちなみに、祈祷書の聖餐式の部分には「どうかみ言葉と聖霊により、主の賜物であるこのパンとぶどう酒を祝し、聖として、わたしたちのためにみ子の尊い体と血にしてください」という聖別の一文がある。
聖公会の信者は原則的に洗礼を受けた後、堅信を受けてはじめて聖餐に与ることが出来る。他教派の信者が聖公会の聖餐式に参祷した時は、主にあっての兄姉として聖餐に招かれるが、他教派から聖公会に転会する場合は、聖公会としての聖餐理解を学び堅信を受けるまで、一時的に拝領停止になる場合がある。
参考文献
- [1] H. デンツィンガー編集, A. シェーンメッツァー増補改訂, 浜寛五郎訳, “カトリック教会文書資料集 改訂版 : 信経および信仰と道徳に関する定義集,” エンデルレ書店, 1996.