筑摩 (重巡洋艦)
重巡洋艦筑摩 | |
艦歴 | |
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発注 | (マル2計画) |
起工 | 1935年10月1日 |
進水 | 1938年3月19日 |
就役 | 1939年5月20日 |
その後 | 1944年10月25日戦没 |
除籍 | 1945年4月20日 |
性能諸元[1] | |
排水量 | 基準:11,213トン 公試:13,320トン |
全長 | 201.6m |
全幅 | 19.4m |
吃水 | 6.23m (公試) |
機関 | ロ号艦本式缶8基 艦本式タービン4基4軸 152,915馬力(全力公試成績) |
速力 | 35.44ノット(全力公試) 35.74ノット (過負荷全力) |
航続距離 | 18ノットで8,000海里 (計画) |
燃料 | 2,690トン |
乗員 | 874名 |
兵装 | 20.3cm連装砲4基8門 12.7cm連装高角砲4基8門 25mm連装機銃6基12挺 13mm連装機銃2基4挺 61cm3連装魚雷発射管4基 |
装甲 | 舷側:145mm 甲板:35mm |
搭載機 | 水上機6機 (カタパルト2基) |
筑摩(ちくま)は、日本海軍の重巡洋艦。利根型の2番艦である。艦名は筑摩川(千曲川、信濃川の上流部)に因んで命名された。この名を持つ日本海軍の艦船としては2隻目。真珠湾攻撃やミッドウェー海戦など、太平洋戦争の重要な戦闘に参加した。
艦歴
緒戦
三菱重工業長崎造船所にて建造。当初は15.5cm三連装砲塔を搭載予定であったが、軍縮条約脱退により20cm連装砲塔4基を前甲板に集中させた重巡洋艦として1939年(昭和14年)5月に就役した[2]。「筑摩」は就役後、第二艦隊第六戦隊所属となった後、同年11月に第八戦隊所属となった。
1940年3月から1941年3月にかけて中国南部で3度作戦に従事した。
太平洋戦争初期は第一航空艦隊(通称:南雲機動部隊)に属し、1941年12月8日の真珠湾攻撃に参加。第一次攻撃隊に先駆けて「筑摩」から零式水上偵察機(岡政治飛行兵曹長)が発進してオアフ島周辺を偵察、午前3時8分「敵艦隊真珠湾ニ在リ、真珠湾上空雲高1700米、雲量七、0308」「真珠湾在泊艦ハ戦艦10、甲巡1、乙巡1」「真珠湾上空、風向80度、風速14米」を発信した[3]。。日本への帰途中、南雲機動部隊から分離した第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)を支援し、ウェーク島第二次攻略戦に参加する。筑摩艦載機は敵情偵察、対潜警戒に活躍したが、1機が大破した[4]。12月29日、日本本土の柱島泊地に帰投した。
1942年1月15日、第二航空戦隊と共に日本を出撃、同月24日のアンボン空襲や2月19日のポートダーウィン空襲を支援した[5]。3月1日、クリスマス島付近で米駆逐艦「エドサル」(DD-219 Edsall)と遭遇、姉妹艦「利根」や第三戦隊の金剛型戦艦「比叡」「霧島」と共に「エドサル」を撃沈したが、約1時間半の砲戦で36cm砲弾297発、20cm砲弾844発を消費している[6]。またジャワ島南南西200浬地点でオランダ貨物船「メイモットヨート号」(8,000t)と遭遇した。まず第二十七駆逐隊の駆逐艦「有明」と「夕暮」が砲撃を行ったがなかなか撃沈できなかった[7]。すると旗艦「赤城」の左舷後方にいた「筑摩」は独断で砲撃を開始し、20cm砲弾が「赤城」の頭上を飛び越えていった[8]。南雲忠一中将は直ちに射撃中止命令をおくったが、「筑摩」は射撃停止までに数斉射を放ち、「メイモットヨート」を撃沈している[8]。3月4日、ジャバ島南岸チラチャップに接近、オランダ商船「エンガノ号」(1万5000t)を駆逐艦「浦風」と共に撃沈した[9]。その後も機動部隊の構成艦として転戦、4月にはインド洋に進出し4月5-9日のセイロン沖海戦に参加、4月23日に日本本土の柱島泊地へ帰投した[10]。「筑摩」は母港舞鶴で人事異動と各部の修理を行い、5月18日柱島泊地に集合する[11]。
米軍機動部隊との戦い
5月27日に柱島泊地を出撃、6月5日のミッドウェー海戦に参加する。南雲機動部隊からは計7機の偵察機が発進予定であった(筑摩水偵2機、利根水偵2機、榛名水偵1機、赤城艦攻1機、加賀艦攻1機)[12]。筑摩1号機は午前1時35分に、筑摩4号機は午前1時38分に発進して機動部隊北北東方面を索敵、このうち筑摩1号機(機長:黒田信大尉/筑摩飛行長)は米軍機動部隊の上空を通過したが、雲のため見逃している[13]。また米艦載機と接触しながらこれを報告しなかったことも米艦隊発見の遅れに直結し、敗因の一つになったと言われる。午前5時30分、利根4号機が米軍機動部隊の存在を報告、午前6時38分に筑摩5号機が利根4号機と交代するため発進した[14]。空母「赤城」「加賀」「蒼龍」が米軍機動部隊から発進したSBDドーントレス急降下爆撃機の奇襲攻撃で被弾炎上すると、筑摩5号機は空母「飛龍」の攻撃隊を誘導[15]。米空母「ヨークタウン」 (USS Yorktown, CV-5)の撃破に貢献したが、5号機は帰投せず行方不明となった[16]。6月14日、「筑摩」は内地に帰投した。
1942年7月以降、「筑摩」は第三艦隊に所属し、第二次ソロモン海戦(1942年8月)、南太平洋海戦(1942年10月)に参加した。10月22日、秋月型駆逐艦「照月」と共に機動部隊から分離し南方で索敵を行うが米艦隊を発見できず、本隊と合流した[17]。南太平洋海戦では前衛艦隊に所属し、機動部隊本隊の前方を進んだ[18]。10月26日午前6時30分、前衛艦隊は「筑摩」を先頭とした単縦陣となり、針路90度、速力30ノット、各艦距離1万3000mで東方に進撃していた[19]。午前7時に米軍偵察機が出現[20]。それ以降断続的に空襲を受け、午前7時26分以降、空母「エンタープライズ」 (USS Enterprise, CV-6)のSBDドーントレスの急降下爆撃により、艦橋左舷、主砲指揮所、艦橋右舷に爆弾が命中[21]。さらに至近弾により右舷缶室に浸水して右舷に傾斜、速力23ノットとなる[22]。僚艦「利根」はスコールに隠されたため米軍機の攻撃を受けず、重傷を負った古村啓蔵筑摩艦長は「爆弾の配給も、少しは公平にして貰いたい」と回想している[23]。古村は午前7時47分に酸素魚雷を投棄させたが、3分後、魚雷発射管付近に直撃弾があった[24]。酸素魚雷の誘爆という致命的事態は免れるも艦載機が炎上、「筑摩」は戦闘不能状態となる[25]。午前8時35分、原忠一第八戦隊司令官は駆逐艦「谷風」「浦風」を護衛につけトラック回航を命令、「筑摩」は午前9時19分に前衛艦隊と分離して退避した[26]。戦闘配食にコーンビーフが出たが、戦死者の肉片が散乱し食事どころではなかったという[27]。正午すぎ、B-17爆撃機3機の水平爆撃を受けるも、米軍が「筑摩」の速力を過大に見積もったため命中しなかった[28]。29日午前、「筑摩」はトラック泊地に到着、山本五十六海軍大将・連合艦隊司令長官が視察に訪れ、乗組員の労を労っている[29]。この海戦で乗組員937名の「筑摩」は副長・砲術長・主計長を含む162名の戦死者を出した[30]。
1943年2月に修理完了。「利根」に先駆けてレーダーを装備し、下甲板舷窓を閉鎖する不沈対策を行った。3月、トラック泊地に進出。4月、山本司令長官が戦死する海軍甲事件が起こる。5月17日、「筑摩」は山本の遺骨を乗せた戦艦「武蔵」を護衛して日本に戻り、22日横須賀に到着。25日は木更津沖に移動した。7月、トラック泊地に戻り、訓練やラバウルへの輸送作戦に従事するなど、主に中部太平洋で行動した。10月16日、「利根」がタービン機関故障で3軸運転となり、これに伴い第八戦隊旗艦となる。「利根」は10月30日、本格的修理のため内地に向かった。11月アメリカ軍がブーゲンビル島上陸したことに対し南東方面部隊編入され、第七戦隊(鈴谷、最上)、軽巡洋艦「能代」、駆逐艦「島風」と共にトラックを出撃[31]。ラバウルに進出した。11月4日夜、夜間攻撃を受けるが被害なし[32]。11月5日、ラバウルに於いて米機動部隊による空襲を受け、9時31分、右舷カタパルト付近に至近弾を受ける[33]。軽傷3名、一番魚雷発射管が使用不能、若干の浸水という被害が発生したが[34]、他の艦に比べて損害は軽かった。7日、トラックに戻った。12月には「瑞鶴」を護衛して日本に戻り、12日に到着。損傷の修理と並行して、「利根」で問題となったタービンの修理を行う。
1944年初頭、第八戦隊の解隊に伴って「筑摩」は第七戦隊所属となった。3月から5月までインド洋で通商破壊戦に従事した後、機動部隊に所属しマリアナ沖海戦(1944年6月)に参加した。
沈没
1944年10月、「筑摩」は栗田艦隊に所属してレイテ沖海戦に参加。水上偵察機5機を搭載し、索敵任務に投入した[35]。空襲直前には、搭載していた1号機と2号機を発進させている[36]。25日、サマール島沖海戦に於いて戦艦「金剛」、重巡「羽黒」と共に米護衛空母「ガンビア・ベイ」 (USS Gambier Bay, CVE-73) を砲撃。この時、「筑摩」は「ガンビア・ベイ」に接近し、砲撃で前部機関室を浸水させるなどの活躍を見せ「ガンビア・ベイ」の撃沈に最も貢献する[37]。だが追撃戦中の8時53分頃、米艦載機の攻撃により、魚雷1本を艦尾に受けて火災が発生[38]。舵故障と速力低下のため艦隊より取り残され、応急修理を施した[39]。10時20分頃から再び米軍機の空襲を受ける[40]。生存者の証言によれば、弾薬が尽きて演習弾で応戦するものの、午後4時頃に艦中央部に複数の命中弾を受ける[41]。「筑摩」は左舷に傾斜し、総員退艦が発令される。筑摩はその後、駆逐艦「野分」により撃沈処分された。海面を漂っていた生存者は120名余が野分に救助されたが、同艦もその晩に米艦隊に補足され、撃沈された[42]。「野分」に救助されなかった短期現役士官のみ、3日間の漂流ののちに米海軍に救助され、戦後日本に帰還した[43]。「筑摩」「野分」の生存者は、航空機搭乗員を除けば1名のみであった。「筑摩」搭載偵察機は2機が未帰還機となり、2機が不時着して失われ、1機が稼動状態にあった[44]。
兵装変遷
利根型重巡洋艦は開戦の時点で最新鋭巡洋艦であり戦没まで大規模な改装はなかった。しかしながら戦時中には戦訓によりレーダー(電探)の装備と対空機銃の増備を実施している。以下にその変遷を記述するが、いずれも推定であることに注意されたい。
- 1943年(昭和18年) 損傷修理の際に後部予備指揮所両側に25mm連装機銃各1基増備、21号電探を装備(前檣)
- 同年12月から翌年2月ころ 25mm連装機銃4基を同3連装機銃に交換。
- 1944年(昭和19年)6月以降、マリアナ沖海戦の戦訓により機銃の大幅な増備。25mm3連装機銃4基、同単装23挺を増備。また22号2基(前檣)、13号1基(後檣)を装備する。
レイテ沖海戦時(最終時)の機銃とレーダー(電探)は
- 25mm3連装機銃8基、同連装4基、同単装23挺。合計55挺
- 電探:21号1基、22号2基、13号1基
と推定される。
歴代艦長
艤装員長
- (兼)龍崎留吉 大佐:1938年5月18日 -
- (兼)友成佐市郎 大佐:1938年11月1日 -
- 西尾秀彦 大佐:1938年12月10日 -
艦長
- 西尾秀彦 大佐:1939年5月20日 -
- (兼)原鼎三 大佐:1939年10月20日 -
- 橋本信太郎 大佐:1939年11月15日 -
- 小暮軍治 大佐:1940年11月1日 -
- 古村啓蔵 大佐:1941年8月11日 -
- 荒木伝 大佐:1942年11月10日 -
- 重永主計 大佐:1943年1月20日 -
- 則満宰次 大佐:1944年1月7日 - 10月25日戦死
同型艦
- 利根 [II]
脚注
参考文献
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.C08030749500「昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 軍艦筑摩戦時日誌(1)」
- Ref.C08030749600「昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 軍艦筑摩戦時日誌(2)」
- Ref.C08030048900「昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(8)」
- Ref.C08030575000「昭和19年7月1日~昭和19年10月25日 軍艦筑摩戦時日誌(1)」
- Ref.C08030575100「昭和19年7月1日~昭和19年10月25日 軍艦筑摩戦時日誌(2)」
- Ref.C08030039300「昭和19年10月20日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦時日誌(3)第7戦隊」
- Ref.C08030037100「昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」
- 重巡利根型 軽巡香取型 丸スペシャルNo.44、潮書房、1980年
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- 雑誌「丸」編集部『丸スペシャルNo122 重巡最上型/利根型』(潮書房、1987年)
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- 利根型重巡 [歴史群像]太平洋戦史シリーズVol.47、学習研究社、2004年
関連項目
- 筑摩 [I] (防護巡洋艦)
- ↑ 機関出力、速力は筑摩の実測値。他は計画値、もしくは利根の値
- ↑ #海の武将19頁
- ↑ #海の武将27頁
- ↑ #海の武将30頁
- ↑ #海の武将31頁
- ↑ #海の武将32頁
- ↑ #機動部隊の栄光(単行本)90頁
- ↑ 8.0 8.1 #機動部隊の栄光(単行本)91頁
- ↑ #海の武将32頁
- ↑ #海の武将34頁
- ↑ #海の武将35頁
- ↑ #海の武将38頁
- ↑ #海の武将39頁
- ↑ #海の武将41頁
- ↑ #海の武将41頁
- ↑ #海の武将42頁
- ↑ #海の武将116頁
- ↑ #海の武将117頁
- ↑ #海の武将51頁
- ↑ #海の武将118頁
- ↑ #海の武将53頁、「昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 軍艦筑摩戦時日誌(2)」pp.11
- ↑ #海の武将54.122頁
- ↑ #海の武将120頁
- ↑ #海の武将55.121頁
- ↑ #海の武将55頁、「昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 軍艦筑摩戦時日誌(2)」pp.25
- ↑ #海の武将56.122頁、「昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 軍艦筑摩戦時日誌(1)」pp.37
- ↑ #海の武将123頁
- ↑ #海の武将56.123頁
- ↑ #海の武将57.126頁
- ↑ #海の武将125頁
- ↑ 「昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(8)」pp.4
- ↑ 「昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(8)」pp.7
- ↑ 「昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(8)」pp.8
- ↑ 「昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(8)」pp.14
- ↑ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」pp.6
- ↑ 安永弘『死闘の水偵隊』392頁 著者は「筑摩」所属機(朝日ソノラマ、1994)
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ #サイパン・レイテ海戦記263頁、「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」pp.27
- ↑ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」pp.8
- ↑ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」pp.9
- ↑ #サイパン・レイテ海戦記396頁
- ↑ #駆逐艦野分物語222頁
- ↑ #駆逐艦野分物語221頁、林義章(筑摩4番主砲砲員)談。
- ↑ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」pp.45