空 (仏教)
テンプレート:Sidebar 仏教における空(くう、テンプレート:Lang-sa-short, シューニャター、テンプレート:Lang-pi-short, スンニャター)とは、固定的実体もしくは「我」のないことや、実体性を欠いていることを意味する。空は時代や学派によっていくつかの概念にまとめられるが、その根本的な部分ではほぼ変わらず、いずれも「縁起を成立せしめるための基礎状態」を指している。
ただし、下述するように、この概念は初期仏教以来用いられてきたものではあるものの、とりわけ大乗仏教初期の『般若経』やナーガールジュナ(龍樹)の『中論』及びその後継である中観派によって、特に強調・称揚・発展されてきた概念であり、そこに端を発する中国仏教宗派の三論宗を「空宗」と別称する[1]ことからも分かるように、一般的にはその文脈との関連で用いられることが多い。
原語はサンスクリットの形容詞「シューニャ」、名詞形は「シューニャター」(Śūnyatā) でしばしば「空性」と漢訳される[2]。
目次
インドでの基本概念
テンプレート:翻字併記(シューニャ)は、śū (= śvA, śvi、成長・繁栄を意味する動詞)からつくられた śūna から発展し、「…を欠いていること」という意味である。また、「膨れ上がった」、「うつろな」を意味する。転じて、膨れ上がったものは中空であるの意味もあり、初期の仏典にもその意味で登場することがある。
シューニャはインドの数学における「 0 (ゼロ)」の名称でもある。
歴史
初期仏教
- 「常に気をつけて、世界を空であると観ぜよ」 -- 『スッタニパータ』1119偈
- 「この講堂には牛はいない、牛についていえば空(欠如)である。しかし比丘がおり、比丘についていえば空(欠如)ではない」 -- 『小空性経』(中部経典、中阿含経)
欠如と残るものとの両者が、空の語の使用と重なり説かれている。これから空を観ずる修行法が導かれ、空三昧(ざんまい)は無相三昧と無願(無作)三昧とを伴い、この三三昧を三解脱門(さんげだつもん)とも言う。 また、この用例は特に中期以降の大乗仏教において復活され、その主張を根拠づけた。 また、『大空性経』(中部経典、中阿含経)は空の種々相(例えば、内空と外空と内外空との三空)を示す。さらには、空と縁起思想との関係を示唆する資料もある(相応部経典、雑阿含経)。部派仏教における空の用例も初期仏教とほぼ同じで、上記の段階では、空が仏教の中心思想にまでは達していない。
大乗仏教
般若経の空
『般若経』が説かれて初めて大乗仏教の根幹をなす教えが完成した。その中で空が繰り返し主張されている(ただし、『金剛般若経』のような最初期のものと見られる般若経典には、「空」の語彙は出て来ない[3])。その原因の一つは、この経典を編纂した教団が批判の対象とした説一切有部の教えが、存在を現に存在するものとして固定化して観ずることに対して厳しい否定を表し、一切の固定を排除し尽くすためのことであろうと考えられる。『般若経』の空は、このように全ての固定的観念を否定することを主目的としている。
『大品般若経』では「空」を「諸法は幻の如く、焔(陽炎)の如く、水中の月の如く、虚空の如く、響の如く、ガンダルヴァの城[4]の如く、夢の如く、影の如く、鏡中の像の如く、化(変化)の如し」と十喩を列挙して説明している。 さらに空を分類して、内空・外空・内外空・空空・大空・第一義空・有為空・無為空・畢竟空・無始空・散空・性空・自相空・諸法空・不可得空・無法空・有法空・無法有法空の十八空(経典によっては二十空)を挙げ詳説している。
龍樹の空観
この空の理論の大成は、龍樹の『中論』などの著作によって果たされた。 龍樹は、存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っていることを論証している。この関係性を釈迦は「縁起」として説明しているが、龍樹は説一切有部に対する反論というスタンスを通して、より深く一般化して説き、関係性に相互矛盾や相互否定も含みながらも、相互に依存しあっていることを明らかにした。これを空もしくは「空性」と呼んでいる。
さらに、関係性によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はないことを明かしている(最高の仏である如来だけがしかし、「自性輪身」〔三輪身の一つ〕)と呼ばれ、自性であるとされている)。これを以て、縁起により全ての存在は無自性であり、それによって空であると論証しているのである。龍樹の空は、これにより「無自性空」とも呼ばれる。
しかし、これらの関連性は、現象面を人間がどのように認識するかということとは無関係のものである。これを人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に認識するということだけではなく、人間独自の概念化や言語を使用することが考えられる。龍樹は、人間が外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。
『大品般若経』の中に以上の内容が含まれているため、龍樹自身がこの経典編纂に携わっていたのではないかという説もある。
『中論』は、俗諦(世俗諦)と真諦(勝義諦)いう2種の真実があるとする二諦説を述べる。前者は言語によって概念的に認識された相対的な世界であり、後者は直接認識された非相対的な世界である。言葉では表現できない釈迦の「さとり」は真諦であり、言葉で表現された釈迦の言葉を集めた経典などは俗諦であるとされる。
さらに、龍樹は「無自性空」から「中」もしくは「中道」もほぼ同義語として扱い、釈迦の中道への回帰を説いている。
空とは何か
テンプレート:Amboxテンプレート:DMCA 空とは、仏教の因果論の究極形であり、因果および因縁の複雑な連関である(したがって、空を理解するにはまず因果および因縁を理解する必要がある)。この世のすべての物事(色)は相互に因縁によって結びつき、ある現象を構成している。この因縁の関係性こそが「空」だという考えである。[5]
例えば、そこらの草木を建材として庵を結ぶ場合、庵は草木から作られ、さらに草木も微細に分解していくことができ、どこにも庵という現象は成立していないことになる。つまり、庵は「存在している」とも言えず、「存在していない」とも言えない。このような「有る」と「無い」の二つの極端を離れたあり方を空という。
類似の発想の西洋での芽生え
仏教に遅れること千数百年以上になるが、20世紀に登場したソシュールの言語学に顕われた記号の捉え方が、仏教の「無自性空」にいくらか類似すると指摘する者もいる。それは、両者ともに存在論から離れていることによる。ソシュールは、記号の意味が差異の関係性のみによって成り立つとし、これを「虚定的、negatif」と呼んだ。この発想は評論家たちの考え方にそれなりの影響を与えた。縁起的成立にある無自性と虚定的対立にある無自性の間には、存在論からの乖離という共通性を上記のように見ると同時に、前者の無自性が無競合的であり、後者のそれが競合的であり且つ自性へ向かう動きにある、という相違性を見ておくのが妥当である。
また哲学者の黒崎宏は、ウィトゲンシュタインが『哲学探究』において提唱した、「言葉の意味はその言葉が使用される“言語ゲーム”のルールによって規定されるのであり、同じ単語でもルールが異なれば全く別の意味を持つ」という「言語ゲーム」論と「無自性空」との類似を指摘し、『般若心経』、『中論』、『正法眼蔵』等の仏教典籍とウィトゲンシュタインの思想を比較研究する著作を発表している。