猿渡信光
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猿渡 信光(さるわたり のぶみつ、天文3年(1534年) - 天正15年4月17日(1587年5月24日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。官位は掃部兵衛、後に越中守。先祖は平高望、父は猿渡信資。子は猿渡信豊、猿渡与三。
生涯
天文3年(1534年)、誕生。
島津氏に仕え、支配領である加世田や羽月の地頭職を歴任した。武勇に優れ、肥後国侵攻や天正12年(1584年)の肥前国の龍造寺氏との沖田畷の戦いなどで活躍。特に沖田畷の戦いでは、1千人の兵を率いたとされ、島津・有馬連合軍の総兵が6千~8千というので、部隊長としてかなりの軍権を有したと推測される。また、この合戦で嫡子の彌次郎[1]が戦死している。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐軍との戦いである根白坂の戦いで戦死した。