愛宕 (重巡洋艦)
重巡洋艦愛宕 | |
艦歴 | |
---|---|
発注 | 昭和2年度艦艇補充計画 |
起工 | 昭和2年(1927年)4月28日 |
進水 | 昭和5年(1930年)6月16日 |
就役 | 昭和7年(1932年)3月30日 |
その後 | 昭和19年(1944年)10月23日戦没 |
除籍 | 昭和19年(1944年)12月20日 |
要目[1] | |
排水量 | 基準:11,350トン(竣工時) 基準:13,400トン(改装後) |
全長 | 203.76m |
全幅 | 19.00m(竣工時) 20.73m(改装後) |
吃水 | 6.11m(竣工時・計画) 6.32m(改装後) |
機関 | ロ号艦本式缶12基 艦本式タービン4基4軸 130,000馬力 |
速力 | 35.5ノット(竣工時) 34ノット(改装後) |
航続距離 | 14ノットで8,000海里(竣工時) 18ノットで5,000海里(改装後) |
燃料 | 重油:2,645トン(竣工時) 2,318トン(改装後) |
乗員 | 727名(竣工時)) 835名(改装後) |
兵装 (竣工時) |
50口径三年式20.3cm連装砲5基10門 45口径十年式12cm単装高角砲4門 40mm単装機銃2挺 八九式61cm連装魚雷発射管4基8門 (九〇式魚雷16本) |
兵装 (1942年) |
50口径三年式20.3cm連装砲5基10門 40口径八九式12.7cm連装高角砲4基8門 九六式25mm連装機銃4基 13mm連装機銃2基 九二式61cm4連装魚雷発射管4基 (九三式魚雷24本) |
装甲 | 舷側:127mm 水平:34-46mm 砲塔:25mm |
航空機 | 水上偵察機3機(呉式2号射出機2基) |
愛宕(あたご)は、日本海軍の重巡洋艦。高雄型の2番艦である。呉海軍工廠にて建造。艦名は京都府の愛宕山に因んで命名された。未完成に終わった天城型巡洋戦艦3番艦の名前を受け継いでいる[2]。
急ピッチで工事をしたため1番艦の「高雄」より早く完成した。このため、高雄型重巡を愛宕型と呼ぶこともある。
艦歴
「愛宕」は初代艦長佐田健一大佐の指揮下昭和7年(1932年)3月30日就役する。4月16日には犬養毅首相を始めとする政府高官を乗せて東京湾を巡航する。同年12月、2代目艦長高橋伊望大佐の指揮下第2艦隊第4戦隊に編入される。
昭和8年(1933年)8月26日には横浜沖で行われた特別大演習での観艦式に、昭和天皇が乗艦する戦艦「比叡」の供奉艦として参列した。
昭和11年(1936年)10月には昭和天皇が乗艦し、江田島に入港、兵学校行幸を行っている。
昭和13年(1938年)4月には近代化改装が行われ、翌14年(1939年)10月に工事完了。昭和16年(1941年)10月「摩耶」に代わって第2艦隊(近藤信竹中将)旗艦となる。中島親孝第二艦隊通信参謀によれば、本来「高雄」が旗艦だったが、事故により「愛宕」に変更されたとしている[3]。11月29日、呉を出港し[4]、12月2日台湾の馬公に到着する[5]。12月4日、「高雄」、戦艦「金剛」、「榛名」を従えて出港[6]。「愛宕」は日米開戦に向けて配置についた。
東南アジアでの行動
「愛宕」は12月8日の開戦を南方海上で迎えた。最大の脅威はシンガポールを根拠地とする英国東洋艦隊の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」であった[7]。その脅威も9日のマレー沖海戦で排除された。11日、カムラン湾に入港し、マレー部隊(旗艦鳥海)と合流する[8]。14日、カムラン湾を出港[9]。以後、マレー作戦や蘭印作戦を支援した。
昭和17年(1942年)2月25日、セレベス島スターリング湾を出港し[10]、オンバイ海峡を経てサウ海に入り、インド洋に進出する[11]。3月2日午後10時22分、バリ島南方で重巡洋艦「高雄」と共に駆逐艦「ピルスバリー」 (USS Pillsbury , DD-227) を20cm砲弾54発、12.7センチ高角砲15発を用いて撃沈した[12]。「愛宕」は「ピルスバリー」を、艦型の似た軽巡洋艦「マーブルヘッド」と誤認している[13]。乗組員の戦時日記には「オハマ型軽巡洋艦」という表現も見られる[14]。3日、重巡「摩耶」、駆逐艦「野分」、「嵐」と合同する[15]。4日、「高雄」、「摩耶」と第4駆逐隊の駆逐艦「嵐」、「野分」と共にチラチャップ近くで船団を攻撃、タンカーFrancol、depot ship Anking、掃海艇1隻を沈め、オランダの貨物船2隻を捕獲し、護衛のオーストラリア海軍スループ「ヤラ」も撃沈した[16]。
3月20日、ボルネオ島タラカンに入港[17]。23日、マサッカルに入港[18]。シンガポールを経て、4月3日にはマレー半島西岸のペナンに到着する[19]。セイロン沖海戦では直接英軍と交戦することはなく、南アンダマン諸島周辺で英軍艦隊の索敵に従事した[20]。4月10日、カムラン湾に入港[21]。開戦以来東南アジアをかけまわった「愛宕」は、一旦前線任務を解かれ、日本に戻った。
「愛宕」は東京湾に面する横須賀港に錨をおろした。4月18日の米軍爆撃機B-25によるドーリットル空襲では横須賀も爆撃されたが、「愛宕」は目標にならなかった。ドーリットル隊が去った後、急遽出撃して米機動部隊を捜索するも、米機動部隊は既に立ち去った後だった[22]。ミッドウェー海戦にはミッドウェー島攻略部隊(第二艦隊)の護衛艦として参加し、サイパン島を経てミッドウェー島近海に進出。6月4日に米爆撃機から攻撃を受けたが被害はなかった[23]。5日、南雲機動部隊の壊滅連絡と撤退命令を受けて変針する。途中、米軍の航空攻撃で大破した重巡洋艦「最上」と合流した[24][25]。6月14日、十七日間にわたる航海を終えて呉に帰着する[26]。
ソロモン諸島での行動
8月初旬、米軍はガダルカナル島とツラギに上陸し、ガダルカナル島の戦いが始まった。8月11日、「愛宕」も戦艦「陸奥」と共に桂島泊地を出発し、南洋の日本海軍拠点であるトラック泊地に向け航海を続けた[27]。17日に到着したが、油槽船「神国丸」、「日栄丸」が米軍潜水艦の雷撃を受けて中破[28]。2隻から艦隊への給油は可能だったが、米軍潜水艦の活動は日本軍の作戦に影響を与えはじめた[29]。
8月20日、「愛宕」は第四戦隊、第五戦隊、水上機母艦「千歳」、第九駆逐隊(朝雲、夏雲。峯雲は出港直前に座礁)と共にトラック泊地を出撃[30]。8月24日の第二次ソロモン海戦に参加した。米軍艦載機20数機の攻撃を受けて「千歳」が損傷したが本艦に被害はなく[31]、米機動部隊に水上戦闘を挑むべく南下したが接触できなかった[32]。9月5日、トラック泊地に帰還する[33]。「愛宕」はその後もソロモン諸島東海面で活動を続けた。10月11日、空母「隼鷹」、「飛鷹」、戦艦「金剛」、「榛名」と共にトラック泊地を出撃[34]。ヘンダーソン基地艦砲射撃を支援する。10月20日午後8時に空母「飛鷹」で火災が発生[35]、「飛鷹」はトラック泊地に戻った[36]。このような情勢下、「愛宕」は10月26日から27日にかけて行われた南太平洋海戦に於いて、前進部隊として参加した[37]。米軍空母「ホーネット」を捕捉し、撃沈に貢献している[38]。10月30日、19日間の航海を終えてトラック泊地に戻った[39]。
11月9日、第四戦隊、第三戦隊(金剛、榛名)、第十一戦隊(比叡、霧島)、第三水雷戦隊(軽巡川内、第六駆逐隊、第十五駆逐隊、第十一駆逐隊)、第二航空戦隊(隼鷹)と共に出撃し、ガダルカナル方面に向かった[40]。「愛宕」では航海長が転勤となったが次任者が着任しておらず、戦艦「陸奥」航海長が「愛宕」に出張し、臨時航海長を務めていた[41]。11月12日、『前進部隊は機密連合艦隊電令作戦に基づき、Zマイナス1日、その大部はRXN北方海面に進出、十一戦隊を基幹とする部隊をもって同日夜、ガダルカナル島飛行場に対し制圧射撃をおこない、Z日、陸軍揚陸を間接的に掩護し、南東方面部隊の作戦を支援すると共に好機に乗じ敵艦隊を捕捉、これを撃滅せんとす』という命令が下り、挺身攻撃隊(第十一戦隊、第十戦隊、第十六駆逐隊、第六駆逐隊)が分離した[42]。この挺身艦隊は12日-13日にかけて米軍巡洋艦部隊と交戦し、戦艦「比叡」が沈没した。「愛宕」は13日午後2時に第十戦隊(軽巡長良)と合流した[43]。
11月14日-15日の第三次ソロモン海戦では、近藤信竹中将指揮の下、米軍新鋭戦艦「サウスダコタ」ならびに「ワシントン」と夜間砲戦を行った。「愛宕」と「高雄」は海戦終盤に「ワシントン」に対し雷撃を試みるも(愛宕だけで19本)[44]、九三式酸素魚雷の信管過敏による命中直前の自爆により[45]、全て命中しなかった。その後2隻はサウスダコタに計23発の命中弾を浴びせ、戦艦「霧島」も「サウスダコタ」の第三砲塔に35.6cm砲を命中させるなどしてこれを撃破したが、「ワシントン」のレーダー管制射撃により「霧島」は大破。沈没した。この海戦で「愛宕」艦首の醤油庫に5インチ砲弾1発が命中した[46]。11月18日、トラック泊地に戻った[47]。8月以来ソロモン諸島海域を奔走してきた「愛宕」は修理のため、12月17日に呉に帰投した。
昭和18年(1943年)11月、ブーゲンビル島逆上陸作戦支援のため、重巡洋艦「高雄」、「摩耶」、「鳥海」、「鈴谷」、「最上」、「筑摩」、軽巡洋艦「能代」、駆逐艦4隻を率いてラバウルに進出。5日、第38任務部隊によるラバウル空襲で米機動部隊艦載機の攻撃を受け、至近弾を受ける。左舷魚雷発射管室付近舷側に巨大な破孔が生じ[48]、艦長中岡信喜大佐以下22名が死亡、20名が重傷を負う。日本に戻って修理後、1944年1月、再びトラック島に進出[49]。2月、米機動部隊の攻撃を避けるように連合艦隊各艦と共にパラオへ移動[50]。直後、米機動部隊によるトラック島空襲により泊地は壊滅した。このパラオ泊地も安全とはいえず、「愛宕」はダバオを経て、4月9日にリンガ泊地に到着した[51]。なお、パラオ出航直後にパラオ大空襲があった。リンガで「愛宕」を含めた各艦は上甲板最先端に日の丸を描いたという[52]。5月14日、タウイタウイ泊地へ移動[53]。第一機動艦隊前衛部隊の旗艦となる。
昭和19年(1944年)6月、マリアナ沖海戦に参加。27日、日本に戻る[54]。7月8日、呉を出航してシンガポールへ向かう[55]。8月2日リンガ泊地に到着し、訓練に従事した[56]。
最期
昭和19年(1944年)10月22日、「愛宕」は栗田健男中将座乗の第2艦隊(第一遊撃部隊)旗艦としてブルネイを出航、レイテ島へ向かう。翌10月23日午前1時16分、会合中だった米潜水艦「ダーター」(USS Darter, SS-227)とデイス (USS Dace, SS-247)がレーダーで栗田艦隊を発見した[57]。両艦は栗田艦隊の追跡を開始した。午前2時30分、「愛宕」は潜水艦の電波を探知し、之字運動を始める[58]。午前6時、栗田艦隊はパラワン水道を通過しようとしていた。「愛宕」は対潜警戒を行っていたものの、各部署は通常の戦闘訓練を行っていたという[59][60]。6時32分、距離およそ900mから「ダーター」の放った6本の魚雷のうち[61]4本が右舷に命中(一番砲塔直下、艦橋前部、中部魚雷発射管室、五番砲塔付近)[62]。電源が停止し、急速に右へ傾いた。左舷注水が行われたが効果は少なく[63]、右舷傾斜増は止まらない[64]。まず司令部が退去したが[65]、総員退去命令は出されなかった可能性が高い[66]。栗田中将、小柳参謀長、荒木艦長以下の生存者は駆逐艦「岸波」が529名、「朝霜」が171名を救助した。「愛宕」は6時53分に転覆、沈没し、機関長の堂免敬造中佐以下360名が戦死した[67]。軍艦旗は降ろされないままだったという[68]。
「岸波」に救助された栗田を含む生存者は戦艦「大和」に移乗し、その中には「大和」の補充要員として戦闘に参加した者もいた。潜水艦の魚雷4本命中により被雷から20分で沈没した「愛宕」だが、日本軍重巡洋艦の特徴ともされる縦強度を高めるための機関室線縦壁が[69]急速傾斜を早めたという指摘もある[70]。
なお、潜水艦「ダーター」は重巡洋艦「高雄」にも魚雷2本を命中させ、同艦を深夜まで漂流させた。「ダーター」は「高雄」に止めをさそうと攻撃を続行したが、航法をあやまり10月24日に座礁。曳航不能となり、乗員は「デイス」に移乗した後「ダーター」を自沈させた。艦長デヴィッド・H・マクリントック少佐は日本軍が「ダーター」の残骸を調査することを見越し、艦内にあった艦型識別訓練用の愛宕型の模型に「これ(模型)があれ(愛宕)と同一艦か?」というメモを貼り付けた[71]。
公試成績
状態 | 排水量 | 出力 | 速力 | 実施日 | 実施場所 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
新造時 | 12,214トン | 135,000馬力 | 35.2ノット | 昭和7年(1932年)2月12日 | 宿毛湾外標柱間 | |
改装後 | 34.2ノット | 昭和14年(1939年)8月30日 | 館山沖標柱間 |
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歴代艦長
艤装員長
- 佐田健一 大佐:昭和5年(1930年)6月20日 -
艦長
- 佐田健一 大佐:昭和6年(1931年)10月1日 -
- 高橋伊望 大佐:昭和7年(1932年)12月1日 -
- 宮田義一 大佐:昭和8年(1933年)11月15日 -
- 園田滋 大佐:昭和9年(1934年)11月1日 -
- 鈴木田幸造 大佐:昭和10年(1935年)11月15日 -
- 伊藤整一 大佐:昭和11年(1936年)4月15日 -
- 五藤存知 大佐:昭和11年(1936年)12月1日 -
- 奥本武夫 大佐:昭和12年(1937年)7月12日 -
- 坂野民部 大佐:昭和12年(1937年)12月1日 -
- 蓑輪中五 大佐:昭和13年(1938年)8月10日 -
- 高塚省吾 大佐:昭和13年(1938年)11月15日 -
- 河野千万城 大佐:昭和14年(1939年)11月15日 -
- 小柳富次 大佐:昭和15年(1940年)10月15日 -
- 伊集院松治 大佐:昭和16年(1941年)8月11日 -
- 中岡信喜 大佐:昭和17年(1942年)12月1日 - 昭和18年(1943年)11月5日戦死
- 荒木伝 大佐:昭和18年(1943年)11月15日 -
同型艦
脚注
参考文献
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.C08030744300「昭和16年12月1日~昭和17年11月30日 軍艦愛宕戦時日誌(1)」
- Ref.C08030744400「昭和16年12月1日~昭和17年11月30日 軍艦愛宕戦時日誌(2)」
- Ref.C08030744500「昭和16年12月1日~昭和17年11月30日 軍艦愛宕戦時日誌(3)」(1942年10月)
- Ref.C08030745500「昭和17年3月~ 軍艦愛宕戦闘詳報(1)」
- Ref.C08030745600「昭和17年3月~ 軍艦愛宕戦闘詳報(2)」
- Ref.C08030745700「昭和17年3月~ 軍艦愛宕戦闘詳報(3)」
- Ref.C08030570600「昭和18年12月1日~昭和19年8月31日 軍艦愛宕戦時日誌(1)」
- Ref.C08030570700「昭和18年12月1日~昭和19年8月31日 軍艦愛宕戦時日誌(2)」
- Ref.C08030569000「昭和19年10月23日 軍艦愛宕戦闘詳報並に戦訓所見」
- 『写真集・日本の重巡「古鷹」から「筑摩」まで全18隻の全て』(光人社、1972)
- 福井静夫「設計資料から見た日本重巡洋艦秘史 世界を凌駕したといわれるその性能はどこから生まれたか」
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第6巻 重巡Ⅱ』光人社、1989年。 ISBN 4-7698-0456-3
- テンプレート:Cite book
著者は1943年11月から沈没まで愛宕航海士として勤務。「大和」移乗後は、防空指揮所見張員。 - テンプレート:Cite book
内容の前半分は、「愛宕」沈没時の状況と生存者の証言。 - テンプレート:Cite book 中島は1940年9月から第二艦隊参謀として「愛宕」乗艦。ミッドウェー海戦後に第三艦隊通信参謀。
- カール・ソルバーグ 著、高城肇 訳『決断と異議 レイテ沖のアメリカ艦隊勝利の真相』光人社、1999年邦訳初出
- テンプレート:Cite book
高橋武士(艦長伝令、艦橋勤務)の戦時日記を元に小板橋が編集。
関連項目
テンプレート:日本の重巡洋艦- ↑ 要目は高雄の値。また機関出力、速力、航続距離は計画値。
- ↑ Ref.C08050173800「軍艦天城愛宕高雄製造一件(製造取止め)(1)」
- ↑ #聯合艦隊作戦室18頁
- ↑ #愛宕奮戦記33頁
- ↑ #愛宕奮戦記36頁
- ↑ #愛宕奮戦記38頁、#聯合艦隊作戦室26頁
- ↑ #聯合艦隊作戦室29頁
- ↑ #愛宕奮戦記46-47頁
- ↑ #愛宕奮戦記50頁
- ↑ #愛宕奮戦記53頁
- ↑ #愛宕奮戦記55頁
- ↑ 「昭和17年3月~ 軍艦愛宕戦闘詳報(1)」p.13、#愛宕奮戦記61頁
- ↑ 「昭和17年3月~ 軍艦愛宕戦闘詳報(1)」pp.12、#聯合艦隊作戦室43頁
- ↑ #愛宕奮戦記60頁
- ↑ #愛宕奮戦記62頁
- ↑ #愛宕奮戦記62-64頁「獲物の当り日、七隻を撃沈拿捕す」
- ↑ #愛宕奮戦記66頁
- ↑ #愛宕奮戦記71頁
- ↑ #愛宕奮戦記75頁
- ↑ #愛宕奮戦記78頁、#聯合艦隊作戦室45頁
- ↑ #愛宕奮戦記83頁、#聯合艦隊作戦室46頁
- ↑ 「昭和17年3月~ 軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.1、#聯合艦隊作戦室46頁
- ↑ 「昭和17年3月~ 軍艦愛宕戦闘詳報(2)」pp.3
- ↑ 「昭和17年3月~ 軍艦愛宕戦闘詳報(2)」pp.5
- ↑ #愛宕奮戦記92頁
- ↑ #愛宕奮戦記96頁
- ↑ #愛宕奮戦記114頁
- ↑ #愛宕奮戦記118頁
- ↑ #愛宕奮戦記119頁
- ↑ #愛宕奮戦記123頁
- ↑ 「昭和17年3月~ 軍艦愛宕戦闘詳報(2)」pp.8
- ↑ 「昭和17年3月~ 軍艦愛宕戦闘詳報(2)」pp.9
- ↑ #愛宕奮戦記150頁
- ↑ #愛宕奮戦記186頁
- ↑ #愛宕奮戦記201,207頁
- ↑ 「昭和17年3月~ 軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.17
- ↑ 「昭和17年3月~ 軍艦愛宕戦闘詳報(2)」pp.18、#愛宕奮戦記213頁
- ↑ #愛宕奮戦記217頁
- ↑ #愛宕奮戦記227頁
- ↑ #愛宕奮戦記229頁
- ↑ #愛宕奮戦記232頁
- ↑ #愛宕奮戦記233-234頁
- ↑ #愛宕奮戦記236頁
- ↑ #愛宕奮戦記250頁
- ↑ 「昭和17年3月~ 軍艦愛宕戦闘詳報(2)」pp.22
- ↑ #愛宕奮戦記249頁
- ↑ #愛宕奮戦記255頁
- ↑ #大和いまだ沈まず66頁
- ↑ 「昭和18年12月1日~昭和19年8月31日 軍艦愛宕戦時日誌(1)」pp.18-19
- ↑ 「昭和18年12月1日~昭和19年8月31日 軍艦愛宕戦時日誌(1)」pp.37
- ↑ 「昭和18年12月1日~昭和19年8月31日 軍艦愛宕戦時日誌(2)」pp.22
- ↑ #大和いまだ沈まず79頁
- ↑ 「昭和18年12月1日~昭和19年8月31日 軍艦愛宕戦時日誌(2)」pp.42
- ↑ 「昭和18年12月1日~昭和19年8月31日 軍艦愛宕戦時日誌(3)」p.8、#大和いまだ沈まず91頁
- ↑ 「昭和17年3月~ 軍艦愛宕戦闘詳報(3)」pp.22
- ↑ 「昭和17年3月~ 軍艦愛宕戦闘詳報(3)」pp.38
- ↑ ソルバーグ『決断と異議』109-110頁
- ↑ 「昭和19年10月23日 軍艦愛宕戦闘詳報並に戦訓所見」pp.33
- ↑ #大和いまだ沈まず96頁、#下士官たちの戦艦大和9,16,97頁
- ↑ 「昭和19年10月23日 軍艦愛宕戦闘詳報並に戦訓所見」p.7
- ↑ ソルバーグ『決断と異議』140頁
- ↑ 「昭和19年10月23日 軍艦愛宕戦闘詳報並に戦訓所見」pp.4,8,14
- ↑ 「昭和19年10月23日 軍艦愛宕戦闘詳報並に戦訓所見」pp.37,40
- ↑ 「昭和19年10月23日 軍艦愛宕戦闘詳報並に戦訓所見」pp.9-10
- ↑ #下士官たちの戦艦大和44頁
- ↑ #下士官たちの戦艦大和87-91頁
- ↑ 「昭和19年10月23日 軍艦愛宕戦闘詳報並に戦訓所見」p.5
- ↑ #下士官たちの戦艦大和99頁。荻原力三(飛行科上整曹)談。
- ↑ 『写真集・日本の重巡』176頁
- ↑ 「昭和19年10月23日 軍艦愛宕戦闘詳報並に戦訓所見」pp.36
- ↑ ソルバーグ『決断と異議』147頁