弘中隆包
弘中 隆包(ひろなか たかかね)は、戦国時代の武将。戦国大名大内氏の家臣。大内義興期の家臣で評定衆を務めた弘中興勝(おきかつ、弘中興兼(おきかね)とも)の嫡男。正式な諱は「隆包」だが、父の別名の一字により「隆兼」と表記される場合も多い(後者は誤りというよりは別表記として伝わっているものである)。
生涯
出自
弘中氏は清和源氏の流れを組み、壇ノ浦の戦い後から代々岩国の領主を務めていた家系である。室町時代より周防の大名・大内家の中心を支える氏族となり、奉行職や軍事職などの要職を代々務めてきた。また弘中家は隆包の代まで長らく白崎八幡宮(岩国市)の大宮司を兼ねていた[1]。隆包は大内義興・大内義隆の2代に仕え、智勇兼備の武将として名声高く若くして数多くの武勲を上げたとされる。
安芸国での活躍
隆包は、その功績から岩国だけでなく安芸の分郡(東西条)の代官にも任じられ、享禄2年(1529年)には毛利元就らと共に松尾城(安芸高田市)などを落とす[2]。その後、安芸国で大内氏と尼子氏の勢力争いが激しくなると、尼子方に属する頭崎城(東広島市)の攻略に劣勢を強いられたことから、天文7年(1538年)頃に東西条の代官を杉隆宣(杉氏一族、隆相の父)に代えられてしまうが、天文10年(1541年)の吉田郡山城の戦い後に大内義隆が安芸守護に任じられると、隆包も安芸守護代を命じられた[2](西条守護と呼ばれることもあった[3])。天文12年(1543年)に槌山城の城主となり、安芸における大内氏勢力の要として活躍した[2]。さらには、備後へ向けた経略も担当している。
天文11年(1542年)には、大内軍の月山富田城遠征に従軍するが、城を落とすことができずに大内軍は敗走。動揺する安芸・備後の国人たちが尼子方に寝返るのを防ぐことに努め、翌12年(1543年)から数年にわたって行われた神辺城(尼子方の山名理興の居城)の攻略(神辺合戦)を、毛利軍などと共に行っている[2]。天文17年(1548年)7月には、義隆の命を受けて神辺城周辺地域で大規模な稲薙(青田刈り)を行っている[4]。
なお、元就とは公私共に親交を深めており、大内軍の月山富田城遠征の際には、意見を共にして義隆に献策するほどの仲であった。また、元就の2人の息子である毛利隆元(山口に人質として3年間滞在した間に親交を深めた)や吉川元春とも親しい間柄であったという。隆包は、同じく大内家臣の江良房栄と共に、元就の力量をよく知っていたと考えられる[2]。
厳島の戦い
天文20年(1551年)に、陶隆房(のちの晴賢)が義隆に対して謀反を起こして甥の大内義長を擁立した(大寧寺の変)。隆包はテンプレート:要出典範囲、反乱後に陶晴賢(隆房から改名)と共に義長に属したことから、同調していたとされる[2][5]。なお、この頃の槌山城は菅田宣真が守っており、隆包の城ではなかった[2]。
天文23年(1554年) に生じた三本松城の戦いにも従軍。三本松城(津和野城)の支城である賀年城を攻めた時には、近くにある茶臼山(八幡山)に陣を張ったと伝わる[6]。
大内・陶と毛利の関係が決裂した後、天文24年(1555年)3月に、毛利との内通が疑われた江良房栄を晴賢の命によって岩国で殺害する[2][4]テンプレート:要出典範囲。厳島の戦い直前の9月には、晴賢が厳島に全軍を移そうとしていることに反対し、陸路による安芸侵攻を主張[2]。元就の謀略であるとテンプレート:要出典範囲再三諫言したが、三浦房清ら諸将の声に乗せられて血気にはやる晴賢は聞き入れなかった。ついに隆包は、実弟の方明を岩国に残して、嫡子の隆助と共に厳島に渡海したが、村上水軍が毛利方に付いたのを見て、大内軍の敗戦を覚悟したと伝わる[4]。
隆包の予想通り、罠にかかった大内軍は総崩れとなった。大混乱に陥った大内軍の中で唯一陣を保全した隆包は、塔の岡(厳島神社のすぐ北にある丘陵)付近で自ら盾となって総大将の晴賢を逃がした[7][8]。潰走する大内軍の中で、弘中父子とその手勢500はさらに抵抗を続けるも、吉川元春らの攻撃を受けて大聖院付近から民家に火を放って逃亡する[8]。やがて晴賢は自刃したが、弘中隊は100名足らずで天険の駒ヶ林(標高約509メートル)の竜ヶ馬場に籠もった。3日間の孤軍奮戦の末、最後は吉川軍に囲まれて遂に討死した。
死後
隆包の智勇と忠節を深く悼んだ元就は、弘中の縁者を毛利家で登用・保護するなどして特に厚く遇した。そのため、安芸や周防一帯では弘中家の縁の者が住職を勤める寺院が数多くあった。吉川広家が隆包の領土であった岩国の領主となった時、今地氏を名乗り始めた隆包の孫(今地良房)が白崎八幡宮の宮司になることが許され今に至る[1]。また、藩内に隆包の曾孫が通津専徳寺(岩国市)を開基することを許され、昭和16年(1941年)に隆包の墓がその境内に移された。
自らの死を知りながら忠義のために渡海した弘中隆包の最期は、西国の悲運譚として講釈等で語り継がれている。
なお、岩国市にある「中津居館跡」が弘中氏の居館と推定されており、大内氏館(山口市)に匹敵する規模を誇る[9]。同跡は、かつて「加陽和泉守居館跡」と呼ばれていたが、加陽和泉守(毛利水軍の一人)は厳島の戦い後に中津居館跡に駐留しただけの人物であり、本来の館主ではないことが判明したため2012年に改称された[10]。隆包が討死した後は、地元では弘中氏の名が語られなくなったことから、加陽和泉守の名が残ってしまったと推測されている[11]。