守屋浩
テンプレート:混同 テンプレート:Infobox Musician 守屋 浩(もりや ひろし、本名:守屋 邦彦(もりや くにひこ)、1938年9月20日 - )は、千葉県出身の歌手、俳優である。安田学園中学校・高等学校卒業。
所属事務所は1960年より堀プロダクション(現在のホリプロ)、所属レコード会社は日本コロムビア→日本クラウンであった。ホリプロ所属タレントでヒットした第1号である。現在もなおホリプロ所属である。
女優、歌手の本間千代子が元夫人。
来歴・人物
1957年、スイングウェストのバンドボーイとして芸能界入りし、1958年に日劇ウエスタンカーニバルでデビューする。ほぼ同時に堀プロダクションを設立した堀威夫の提案により芸名を「守屋浩」とする。これは既に第一線で活躍していた井上ひろし、水原弘に合わせたものと言われている。3人合わせて「三人ひろし」と言われた時期もある(かまやつひろしを入れて「四人ひろし」となる場合もある)。
守屋は当時のロカビリーブームで大躍進し、茶の間にも知られるようになった。
1960年の堀プロダクション設立後は同事務所に移籍(それ以前の所属事務所は不明)。この頃に歌謡曲に転向し、「夜空の笛」や「僕は泣いちっち」が大ヒットする。その後も「大学かぞえうた」や「有難や節」などをヒットさせる。
また映画でも活躍していた。その数は約20作ある。
1976年3月からはホリプロダクション(堀プロダクションを改名)の社員に転じ、同社の宣伝部長などを歴任、2011年現在ではホリプロのスカウト部長を兼務して新人の発掘などの業務を行い、また次代を担う若い歌手及び社員などの教育・指導にも当たっている。なお、守屋はホリプロ(1990年再改名)創立当時より現在に至るまで在籍している唯一のタレントでもある(守屋の次に在籍年数が長いのは和田アキ子である)。
そのため歌手・タレントしての活動は一時はほとんど行っていなかったが1990年代以降は本格的に活動を再開させ、懐メロ番組や歌のステージなどにも積極的に出演するようになった。
近年、脳梗塞に倒れたがリハビリの末に復帰した。病気の後遺症もあり、2008年以降はステージに置かれた椅子に座っての歌唱となっている。
主な持ち歌
- 僕は泣いちっち
- 夜空の笛
- 東京へ戻っておいでよ
- 長いおさげ髪
- 星空に両手を
- 大学かぞえうた
- 有難や節
- ボン・ボヤージ
- ガマの油売り
- 月のエレジー
- 泣きとうござんす
- 泣きべそ列車
- よせよ恋なんて
- 若かったあの頃
主な出演映画
- 檻の中の野郎たち
- あんみつ姫の武者修業
- 僕は泣いちっち
- 有難や三度笠
- 有難や節 あゝ有難や有難や
- 思い出の指輪
紅白歌合戦出場歴
- 1960年 第11回「僕は泣いちっち」
- 1961年 第12回「月のエレジー」
- 1962年 第13回「大学かぞえうた」
- 1963年 第14回「がまの湯売り」
関連項目
- 千葉県出身の人物一覧
- ソウル・フラワー・モノノケ・サミット(アルバム『レヴェラーズ・チンドン』で「有難や節」をカバー)