保原町

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テンプレート:Infobox 保原町(ほばらまち)は、福島県伊達郡にあったである。2006年1月1日、同じ伊達郡の伊達町梁川町霊山町(りょうぜんまち)、月舘町と合併して、伊達市となった。市役所本庁舎は旧保原町役場、分庁舎は旧梁川町役場となり、旧伊達町、旧霊山町、旧月舘町の役場は市役所支所となった。

概要

保原町は、信達平野(しんたつへいや)の東部に位置し、県都福島市に隣接する町である。1955年(昭和30年)、保原、大田、上保原、柱沢、富成の1町4村が合併。東に阿武隈山系の霊山、西に吾妻連峰、北には宮城県境の山々を望み、西北を阿武隈川が北に流れている。阿武隈川流域は、古くから養蚕地として開け、保原町は信達平野の生糸の集散地、蚕取引の中心地として栄えた。現在は、地場産業であるニット製造業に加え、誘致企業を中心とした電子機器関連工場が、町の基幹産業として定着している。

保原町の平地は、豊かな水田地帯で、県北の穀倉地帯の一部となっている。また、恵まれた肥沃な土壌を活かして、明治・大正時代からりんごプラムなどの果樹栽培が始まり、特に質の良い桃は全国に「福島の桃」の評価を高め、年間4,000tの生産量を誇っている。

国道349号線沿いに位置し、阿武隈急行で県都・福島に20分、東京に約120分の充実したアクセスは、豊かな自然の中でのビジネス、都市型生活を可能にし、自然と共存する新時代の町として成長しつづけている。

歴史

保原には、縄文弥生古墳時代の土器や石器・住居跡などが町内のあちこちにあり、古くから人々が住んでいたことがわかる。また、5~7世紀と推定される大泉みずほ古墳群跡は、方墳円墳前方後円墳が集中する大変珍しい遺跡である。

鎌倉時代初期には、伊達家の始祖・伊達朝宗源頼朝から伊達郡を拝領し、高子岡城を築いた。小高い丘にあるその城址から伊達平野が一望できる。

また、現在の陣屋通りの北東には保原城が築かれ、戦国時代には伊達氏の家臣・中島伊勢が、江戸時代には上杉景勝の家臣・大石氏が居城したと伝えられている。城ノ内、鉄炮町などの地名は、城下町の名残りをとどめている。

寛保2年(1742年)には、白河藩松平氏)の代官所として保原陣屋が設けられ保原地方の17ヶ村(約2万石)がこの支配に属した。このころ、毎月5と10の日に町通りに市が立ち、生糸や真綿が売買され、保原は商人のまちとして大きく発展した。

また、渡辺新左衛門は、梁川藩の堀江与五衛門と共に、大変な苦労の末、慶長10年(1605年)砂子(いさご)堰を築きあげ、保原地方の肥沃な田畑の基礎をつくっている。

関連項目