藤原基衡
藤原 基衡(ふじわら の もとひら)は、平安時代後期の豪族。奥州藤原氏第2代当主。父は藤原清衡。
生涯
天仁元年(1108年)、鳥羽上皇の勅宣により、出羽国寒河江荘慈恩寺に阿弥陀堂(常行堂)・釈迦堂(一切経堂)・丈六堂を新造し、鳥羽院より下賜された阿弥陀三尊を阿弥陀堂に、釈迦三尊と下賜された一切経五千余巻を釈迦堂に、基衡が奉納した丈六尺の釈迦像を丈六堂に安置したという[1]。大治3年(1128年)に父清衡の死後、異母兄である小館惟常ら兄弟との争乱が記録されている。基衡は惟常の「国館」(国衙の事と思われる)を攻め、異母弟の圧迫に耐えかねた惟常は小舟に乗って子供を含め二十余人を引き連れて脱出し、越後国に落ち延びて基衡と対立する他の弟と反撃に出ようとするが、基衡は陸路軍兵を差し向け、逆風を受けて小舟が出発地に押し戻された所を惟常父子らを斬首したという[2]。
基衡はこの合戦に勝ち、奥州藤原氏の当主となる。なお、清衡の元妻が清衡死後に上洛して都の検非違使・源義成と再婚し、所々へ追従し、珍宝を捧げて清衡の二子合戦を上奏して都人の不興を買っている。この女性は基衡と反目し、後継者争いに関わって平泉を追われたのではないかと推測される。
康治元年(1142年)、藤原師綱が陸奥守として赴任すると、陸奥国は「基衡、一国を押領し国司の威無きがごとし」(『古事談』)という状態であったので、事の子細を奏上し宣旨を得て信夫郡の公田検注を実施しようとしたところ、基衡は家人である地頭大庄司・季治(佐藤季治、または季春)に命じてこれを妨害し、合戦に及ぶ事件が発生する。激怒した師綱は陣容を立て直して再度戦う姿勢をしめし、宣旨に背く者として基衡を糾弾する。季治は師綱の元に出頭し、審議の結果処刑された。基衡は師綱に砂金一万両献上し、季治の助命を誓願するが、師綱はこれを拒否したという。
基衡はこれに懲り、翌康治2年(1143年)に師綱の後任の陸奥守として下向した院近臣・藤原基成と結び、その娘を嫡子・秀衡に嫁がせた。基成と結ぶことで基衡は国府にも影響を及ぼし、院へもつながりを持った。
また、左大臣・藤原頼長が摂関家荘園12荘のうち、自分が相続した出羽遊佐荘、屋代荘、大曾根荘、陸奥本吉荘、高鞍荘の年貢増額を要求してきた。この年貢増微問題は5年以上揉める事になるが、基衡はこれと粘り強く交渉し、仁平3年(1153年)に要求量を大幅に下回る年貢増徴で妥結させ、頼長を悔しがらせている[3]。これにより、奥羽にあった摂関家荘園は奥州藤原氏が荘官として管理していたことがわかる。
久安6年(1150年)から久寿3年(1156年)にかけて、毛越寺に大規模な伽藍を建立した。また、基衡の妻は観自在王院を建立している。
金色堂に眠る基衡
基衡の遺骸はミイラとなって父清衡、子秀衡と共に中尊寺金色堂に納められている。1950年(昭和25年)の遺体学術調査について1994年7月に中尊寺により上梓された『中尊寺御遺体学術調査 最終報告』によると、基衡は身長164cm、いかり肩で肥満体質、腹がよく突き出していたと思われる。幅広く厚い胴回り。鼻筋が通り高い鼻、顔は長く顎の張った大きな顔。太く短い首。重度の歯槽膿漏で虫歯もあり、美食の結果かと思われる。レントゲン検査によると、死因は骨髄炎性脊椎炎ないしは脊椎カリエスかと想定される。血液型AB型。死亡年齢は60 - 70歳くらい、あるいは70歳前後。右手首に数珠玉の跡が二列並んでいた。遺体に副えられた副葬品は、木製の杖、木製・ガラス製の念珠、金装の水晶露玉、黒漆塗太刀鞘残片、羅、白綾、錦、金銅鈴など、京都のそれに勝るとも劣らない当代一流の工芸品であった。
脚注
参考文献
- 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 上巻』、1994
- 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 慈恩寺中世資料(解読版)』、1997
関連項目
- 小説
- 今東光『蒼き蝦夷の血』(新人物往来社/徳間文庫)