美濃焼
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美濃焼(みのやき、Mino Yaki - Mino Ware)とは、岐阜県多治見市、土岐市、瑞浪市、可児市を主たる産地とする陶磁器の総称である。
1978年(昭和53年)7月22日に、通商産業省(現経済産業省)伝統的工芸品に認定されている。
美濃焼が主に生産される岐阜県東濃地域は、日本最大の陶磁器生産拠点であり、日本の陶磁器生産量の約半分を占める。
歴史
平安時代に作られた須恵器から発展し、鎌倉時代以降、瀬戸市周辺の丘陵地帯ほどではないが古瀬戸系施釉陶器を焼く斜面を利用した窖窯による陶器生産[1]が開始された。15世紀初頭に土岐市域に窯が散在的に築かれる[2]。16世紀に織田信長の経済政策によって瀬戸市周辺の丘陵地帯の陶工たちも美濃地方(土岐川以北)の集落に移り住んで[3]窖窯よりも焼成効率に優れた地上式の単室窯である大窯を多数築いた。桃山時代に、志野焼に代表されるような「美濃桃山陶」が焼かれ一大産地となり、美濃焼の基礎が築かれた。江戸時代になると、窯体構造は、大窯から連房式登窯となり、志野焼に加えて織部焼の優品が生み出された。江戸時代中期に「御深井」が焼かれる。江戸時代末期に磁器の生産が始まり現在では日本の和食器・洋食器の大半を生産する大窯業地となる。
特徴
桃山時代にそれまでになかった自由な発想で登場し、「美濃桃山陶」とも呼ばれる陶器。中でも武将でもあり茶人でもあった古田織部(1543年 - 1615年)が創意工夫を凝らした「織部好み」は有名である。 志野茶碗の「卯花墻」(うのはながき)は、日本製の焼物では数少ない国宝指定物件の1つである。
美濃焼の代表
- 志野(しの)
- 灰志野
- 無地志野
- 絵志野
- 鼠志野
- 紅志野
- 練込志野
- 赤志野 など
- 織部(おりべ)
- 総織部
- 青織部
- 織部黒
- 鳴海織部
- 黒織部
- 赤織部
- 志野織部 など
- 黄瀬戸(きぜと)
- 瀬戸黒(せとぐろ)
著名な作家
重要無形文化財保持者(人間国宝)
指定・認定順[4]
- 荒川豊蔵 (1894年-1985年)
- 多治見市生まれ。1930年に大萱(可児市久々利)において志野陶片を発見し、黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部などの桃山陶が美濃で作られていたことを証明した。1933年、美濃大萱に築窯。1955年の第一次の重要無形文化財指定において、「志野」及び「瀬戸黒」の保持者に認定される。号は斗出庵
- 加藤土師萌(1900年-1968年)
- 瀬戸市生まれ。1961年、国の重要無形文化財「色絵磁器」の保持者に認定される。岐阜県陶磁器試験場に勤務し陶磁器デザインなどを指導する。
- 塚本快示(1912年-1990年)
- 土岐市生まれ。1983年、国の重要無形文化財「白磁・青白磁」の保持者に認定される。
- 鈴木藏(1934年-)
- 土岐市生まれ。1994年、国の重要無形文化財「志野」の保持者に認定される。一貫してガス焼成により志野を制作をしている。
- 加藤卓男 (1917年-2005年)
- 加藤孝造(1935年-)
- 瑞浪市生まれ。1995年、志野・瀬戸黒の技法で岐阜県重要無形文化財保持者に認定される。2010年、国の重要無形文化財「瀬戸黒」の保持者に認定される。
脚注
参考文献
- 田口昭二『美濃焼』(考古学ライブラリー17),ニューサイエンス社,1983年
- 藤澤良祐『瀬戸市史陶磁史篇四 瀬戸大窯の時代』(瀬戸市、1993年)