間部詮勝
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間部 詮勝(まなべ あきかつ)は、越前鯖江藩第7代藩主。間部家8代。幕末に老中首座を務めた。
生涯
文化元年(1804年)2月19日、間部詮熙の五男として江戸の鯖江藩邸で生まれる。幼名は鉞之進(えつのしん)。
文化11年(1814年)に鯖江藩主となり、11代将軍・徳川家斉の側近として奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代などを歴任する。天保11年(1840年)、家斉の推薦で西丸老中となったが、天保の改革を行っていた水野忠邦に、奢侈好みだった家斉の最晩年の側近だったと疎まれ、天保14年(1843年)に老中を辞任した。
その後、安政5年(1858年)に南紀派の大老井伊直弼の下で再び老中に復帰し、財政を担当する勝手御入用掛と外交を担当する外国御用取扱を兼務する。その後、勝手掛老中に上り朝廷対策、日米修好通商条約の調印など外交問題や、一橋派や尊皇攘夷派を弾圧する安政の大獄に奔走する。「井伊の赤鬼」に対して「間部の青鬼」といわれたが、粛々と政敵との対話を進めた姿勢は評価されている。
しかし、逮捕者の処断をめぐって「天下の多士を失うことになる」と主張した間部は井伊と対立したため、安政6年(1859年)に免職される。詮勝が老中在任中に失政ありとして、文久2年(1862年)に間部家は1万石の減封を蒙った。
明治17年(1884年)11月28日に死去。享年81(満80歳没)。
経歴
※日付は旧暦
- 文化11年(1814年)
- 7月、継嗣となる。
- 9月、家督相続し、鯖江藩主となる。
- 文政元年(1818年)11月16日、従五位下下総守に叙任。
- 文政9年(1826年)6月17日、奏者番となる。
- 天保2年(1831年)5月28日、寺社奉行を兼帯。
- 天保8年(1837年)7月20日、大坂城代に異動。同日、従四位下に昇叙、下総守は元の如し。
- 天保9年(1838年)4月11日、京都所司代に異動。同日、侍従を兼任。
- 天保11年(1840年)1月13日、西丸(大御所徳川家斉)老中に異動。城主待遇となる。
- 天保12年(1841年)3月23日、将軍世子・徳川家祥(のちの家定)付老中に異動。
- 天保14年(1843年)閏9月21日、西丸(家祥付)老中を辞職。
- 安政5年(1858年)
- 6 月23日、雁の間席より老中。勝手御入用掛と外国御用取扱を兼帯。
- 6月26日、幕府使者として上洛。
- 安政6年(1859年)
- 7月20日、勝手掛御役御免(外国御用取扱多忙に付き)。
- 7月23日、老中首座となる。
- 11月28日、外国御用取扱兼帯解く。
- 12月24日、老中御役御免。
- 文久2年(1862年)11月20日、石高1万石を減封し、隠居。4万石となる。