宇喜多忠家
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宇喜多 忠家(うきた ただいえ)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将。宇喜多興家の子で、宇喜多直家の異母弟(母は阿部善定娘)。同母弟に春家がいるとされるが、同一人物説もある。
経歴
兄である直家を古くから補佐して、その創業の多くを助けたという。特に天正6年(1578年)に毛利氏とともに尼子軍が籠もる播磨上月城を攻めた際には兄に代わって宇喜多軍の総大将を務めている(上月城の戦い)。天正9年(1581年)、直家が病死し、直家の嫡男宇喜多秀家が後を継いだが、10歳と若かった為、一門として補佐した。特に合戦では秀家の陣代として大将を務めることも多かった。備前富田城を居城とする。
慶長4年(1599年)、主君秀家と、家老の戸川達安、忠家の子である詮家や古参の花房職秀などが対立した宇喜多騒動と呼ばれる内訌が起きると剃髪して隠居したという。そのまま大坂で隠居し、安心と名乗り慶長14年(1609年)に大坂で没したとされる。
忠家の嫡男詮家は関ヶ原の戦いで東軍についた功績により津和野藩に封じられ、坂崎直盛と名を改めて幕府に仕えたが元和2年、千姫事件により改易され、切腹した。しかし、この詮家の子孫の一部は中村氏として存続している。
兄直家との関係
兄直家を創業の頃から補佐していたとされ、また兄の死後も甥秀家を助け、兄や甥の補佐に務めた反面、策謀家であった兄直家を信頼しておらず、兄の前へ出る時は着衣の下に鎖帷子を着けていたともいわれる。
弟春家との同一人物説
忠家は弟春家と同一人物とされる説がある。
これは
- 父興家が備前福岡の阿部善定の下に逃れた2年後に病死しているにもかかわらず、善定の娘との間に忠家、春家の二人を得ていること
- 春家が守備したとされる砥石城、金山城、沼城などの拠点がことごとく忠家の記録と重なること
- 忠家と春家の2人の功績・記録が資料によって入れ替わりが見られ、業績や合戦への参加記録も重なること
- 春家の通称とされる「六郎兵衛」はごく一部資料のみで、古い資料には忠家と同じ「七郎兵衛」であること
- 忠家の子とされ、直家の養子となった基家が春家の子とされる資料も多いこと
などから、忠家と春家が同一人物という説である。