長良 (軽巡洋艦)

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艦歴
発注 1917年度計画
起工 1920年9月9日佐世保工廠
進水 1921年4月25日
就役 1922年4月21日
その後 1944年8月7日戦没
除籍 1944年10月10日
性能諸元
排水量 基準:5,170トン
常備:5,570トン
全長 162.15m
全幅 14.17m
吃水 4.80m
機関 90,000馬力
最大速 36.0ノット
航続距離 14.0ノットで5,000海里
乗員 440名
兵装
(新造時)
50口径三年式14cm単装砲 7基7門
40口径三年式8cm単装高角砲 2基2門
三年式6.5mm機銃 2挺
八年式連装魚雷発射管 4基8門(魚雷16本)
飛行機滑走台 1基
機雷 48個
搭載機 1機

長良(ながら)は日本海軍軽巡洋艦長良型の1番艦にしてネームシップ。長良川より名称が取られる。

概要

1920年代、日本海軍拡張期に6隻が建造されたうちの1隻。球磨型川内型と3型あわせて5500トン級軽巡洋艦とも呼ばれる。

1922年(大正11年)4月竣工。30ノット以上の速力、魚雷発射管の主兵装、複数の対水上用の14センチ単装主は純粋な水上戦闘が行われた第一次世界大戦の影響を強く残す。

太平洋戦争開戦時には、第三艦隊第十六戦隊に「足柄」、「球磨」と共に所属していたが、この2隻が南方部隊比島部隊主隊となった一方で、「長良」は第四急襲隊旗艦としてフィリピン侵攻の支援を行った。この際第一根拠地隊司令の久保九次少将が旗艦としている。

1942年1月25日にはケンダリー攻略作戦に従事中、同じく従事中であった第21駆逐隊の「初春」が船体右舷中央に衝突し乗員2名が負傷した。第一根拠地隊旗艦の任務は第21駆逐隊の「初霜」に譲り、応急修理のためダバオへ後退した。修理終了後2月4日には、「初霜」から再び第一根拠地隊旗艦を継承している。その後、マカッサル攻略作戦に従事中の2月7日未明には潜水艦スカルピンから、バリ島攻略中の2月17日にはイギリス潜水艦トルーアントから雷撃を受けたが、どちらも損害はなかった。3月下旬、クリスマス島攻略戦に、「那珂」、「名取」等と共に参加。3月31日には潜水艦「シーウルフ」から雷撃を受けたが、これも損害はなかった。一方、僚艦「那珂」はシーウルフの雷撃により大破し、「名取」に曳航されて避退した。

4月11日に「長良」は舞鶴へ帰港し、13日には第十戦隊旗艦(木村進少将)に配属がえとなった。 5月にはMI作戦に備えて柱島へと移動し、5月26日に第一機動部隊(南雲機動部隊)警戒隊旗艦として柱島を出港、6月5日のミッドウェー海戦に参加した。 ミッドウェー海戦で旗艦「赤城」が被弾した後、南雲忠一中将以下の第1航空艦隊司令部が移譲、旗艦となった。

呉に帰投後、7月14日に第十戦隊は第三艦隊に編入され、8月16日にソロモン海域での作戦に従事するため出港した。8月24日には第二次ソロモン海戦に参加、10月26日には南太平洋海戦に参加したが、損傷なくトラック諸島へと帰還した。 11月12日からの第三次ソロモン海戦には、戦艦「比叡」「霧島」を護衛し、海戦にも参加した。13日の第一夜戦では軽巡洋艦「アトランタ」に対して命中弾を得たが、重巡洋艦「サンフランシスコ」の5インチ砲を被弾した。しかし損傷は軽微にとどまり、作戦を続行した。15日の第二夜戦において、戦艦「ワシントン」と「サウスダコタ」を中心とする第64任務部隊と交戦。駆逐艦「綾波」が損傷させた駆逐艦「プレストン」にとどめをさし、撃沈する戦果を挙げた。しかし、米新鋭戦艦2隻に対して雷撃による被害を与える事は出来なかった。18日にはトラックに帰還し、第二艦隊第四水雷戦隊に編入された。

その後「長良」は1943年7月に第2水雷戦隊、8月に第八艦隊に編入され、11月に第四艦隊旗艦となるなどしながらトラック近辺で作戦活動を続けていた。1943年12月5日にクェゼリン環礁に寄港中に第50.3任務部隊の空母艦載機の攻撃を受け、至近弾により搭載魚雷が誘爆、48名が死亡、艦長を含む112名が負傷した[1]。同環礁に停泊していた工作艦「山霜丸」より応急修理を受け、トラックに退避[1]病院船氷川丸」に負傷者や戦死者の遺骨を預け、西村友晴先任将校を艦長代理とした[1]。この損傷から日本本国での修理が決まるが、先だってラバウル空襲で損傷し艦尾を切断した駆逐艦「長波」の曳航を命じられる[2]。「氷川丸」に預けた戦死者遺骨を再び「長良」に持ち帰り、「長波」を曳航して日本本土に向かった[2]。1944年1月24日に呉に到着して「長波」を引き渡し、「長良」は1月26日に舞鶴に入港して修理を受けた。この際に後述の「大戦中の要目」に記された改装を受けている。修理中に中部太平洋方面艦隊付属に編入されたが、出渠して訓練も終了した5月に第十一水雷戦隊へ編入となった。

「長良」はしばらく呉に入港していたが、1944年6月15日にアメリカ軍がサイパン島に上陸したのを受け、逆上陸作戦の参加戦力として6月19日に横須賀へ移動した。しかし6月21日のマリアナ沖海戦の敗北を受けて、25日に逆上陸は中止となった。急遽小笠原諸島の防衛力増強の必要に迫られた陸軍はサイパン島逆上陸用に用意していた部隊を小笠原諸島防衛に転用することを決定し、海軍も同様に準備していた艦船を小笠原への輸送にあてることとし、伊号輸送部隊を編成した。「長良」は伊号輸送部隊第一輸送隊(長良、駆逐艦冬月第四号一等輸送艦等)に加わり、6月28日に横須賀を出港、7月1日に父島二見に入港し、任務を果たした。

7月14日からは沖縄への呂号輸送作戦に従事し、8月5日に那覇から疎開者をつれて出港して6日に鹿児島に入港、疎開者を上陸させた。

1944年(昭和19年)8月7日、鹿児島を出港して佐世保へ向かう途中、天草諸島の西で米潜水艦「クローカー」 (USS Croaker, SS-246) の雷撃を受けた。後部発射管から4本の魚雷が射出され、うち1本が右舷後部に命中、ほどなくして沈没した。 艦長以下348名が死亡し、237名が救助された。

太平洋戦争開戦時の要目

1941年(昭和16年)12月での要目。

  • 兵装:
    • 50口径三年式14cm単装砲 7基7門
    • 九六式25mm連装機銃 2基4挺
    • 保式13mm四連装機銃 1基4挺
    • 7.7mm単装機銃 2挺
    • 61cm連装魚雷発射管 4基8門
  • 航空兵装:
    • 呉式2号射出機3型改1 1基
    • 水偵 1基

大戦中の要目

大戦中は5番、7番主砲を撤去、航空兵装も廃止し代わりに12.7cm連装高角砲1基を装備した。また機銃も増備している。電探も装備と推定される。 酸素魚雷についてはあ号作戦終了後の改装時に、魚雷兵装を4連装発射管2基へと換装した事により発射能力を得たとの説があり、これ以前には空気魚雷を使用していた[3]

1944年(昭和19年)6月での要目。

  • 基準排水量:6,050トン
  • 公試排水量:7,199トン
  • 速力:33.4ノット
  • 兵装:
  • 航空兵装:なし

1944年(昭和19年)8月での兵装要目。

  • 兵装:
    • 50口径三年式14cm単装砲 5基5門
    • 40口径八九式12.7cm連装高角砲 1基2門
    • 九六式25mm3連装機銃 2基、同連装 6基、同単装 14基、合計32挺
    • 九三式13mm連装機銃 1基、同単装 8基、合計10挺
    • 61cm4連装魚雷発射管 2基8門(九三式魚雷搭載)
    • 二一号電探 1基


一方、艦艇研究家の田村俊夫は上記の定説に対して、換装した根拠がない事や一部の特型駆逐艦が発射管を改造して酸素魚雷を運用した例がある事から疑問を持ち、長良の兵装変遷を調査した。その中で、

  • 連装発射管を撤去し4連装発射管2基(九三式魚雷搭載)を装備した名取は「水雷兵装換装工事」及び「水雷兵装装備工事」と工事記録に書かれているのに対し、長良の工事記録には「水雷兵装改装工事」及び「水雷兵装換装工事」と書かれ工事名称が違っている事。
  • 1944年7月1日に作られた『艦船要目概要一覧表』には、魚雷兵装に関して「連装発射管四基、九三式魚雷」と書かれている事。
  • あ号作戦後に作られた『各艦機銃電探哨信儀等現状調査表』の図ではウェルデッキのままであり、戦前に酸素魚雷へ改装しウェルデッキを廃止した阿武隈の増備図とは大きく異なる事。
  • 沈没時に米潜水艦クローカーから撮られた写真では、ウェルデッキが確認されている事。

以上の事から「連装発射管を改装して九三式酸素魚雷を発射可能にしたのではないか」という説を上げている[4]

田村俊夫が調査した1944年(昭和19年)8月での兵装要目。

  • 兵装:
    • 50口径三年式14cm単装砲 5基5門
    • 40口径八九式12.7cm連装高角砲 1基2門
    • 九六式25mm3連装機銃 2基、同連装 6基、同単装 14基、合計32挺
    • 九三式13mm連装機銃 1基、同単装 8基、合計10挺
    • 九二式7.7mm機銃 2基
    • 61cm連装魚雷発射管 4基8門(九三式魚雷搭載)
    • 三式爆雷投射基4基
    • 爆雷投射軌条2基
    • 爆雷60個
    • 二一号電探 1基
    • 逆探 1基
    • 九三式水中探信儀
    • 九三式水中聴音機

歴代艦長

艤装員長

  1. 黒田瀧二郎 大佐:1921年6月15日 -

艦長

  1. 黒田瀧二郎 大佐:1922年4月21日 -
  2. 藤井謙介 大佐:1922年11月10日 -
  3. 佐藤巳之吉 大佐:1923年11月1日 -
  4. 堀悌吉 大佐:1924年11月1日 -
  5. 吉武純蔵 大佐:1925年10月20日 -
  6. 柳沢恭亮 大佐:1926年7月1日 -
  7. 伴次郎 大佐:1927年12月1日 -
  8. 相良達夫 大佐:1927年12月21日 -
  9. 佐藤市郎 大佐:1928年12月10日 -
  10. 三井清三郎 大佐:1929年5月1日 -
  11. 小林宗之助 大佐:1929年11月30日 -
  12. 脇鼎 大佐:1930年12月1日 -
  13. 谷池三郎 大佐:1931年12月1日 -
  14. 渡部徳四郎 大佐:1932年12月1日 -
  15. 高木武雄 大佐:1933年11月15日 -
  16. 松永次郎 大佐:1934年11月15日 -
  17. 梶岡定道 大佐:1935年11月15日 -
  18. (兼)松山光治 大佐:1936年12月1日 -
  19. 中尾八郎 大佐:1937年2月20日 -
  20. 澤田虎夫 大佐:1937年11月10日 -
  21. 一瀬信一 大佐:1938年7月15日 -
  22. 江戸兵太郎 大佐:1938年12月15日 -
  23. 矢野英雄 大佐:1939年7月1日 -
  24. 中里隆治 大佐:1939年9月1日 -
  25. 曽爾章 大佐:1940年11月1日 -
  26. 直井俊夫 大佐:1941年9月10日 -
  27. 田原吉興 大佐:1942年7月10日 -
  28. 篠田勝清 大佐:1942年12月17日 -
  29. 北村昌幸 大佐:1943年8月16日 -
  30. 近藤新一 大佐:1944年4月7日 -
  31. 中原義一郎 大佐:1944年5月8日 - 8月7日戦死

同型艦

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

  • 雑誌「丸」編集部 『写真|日本の軍艦 第8巻 軽巡Ⅰ』光人社、1990年
  • テンプレート:Cite book
  • 田村俊夫「5500トン型軽巡「長良」の兵装変遷の定説を正す全調査」『歴史群像 太平洋戦史シリーズVol.51 帝国海軍 真実の艦艇史2』学習研究社、2005年 ISBN 4-05-604083-4

関連項目


テンプレート:日本の軽巡洋艦

  1. 1.0 1.1 1.2 #日本海軍のこころ36頁
  2. 2.0 2.1 #日本海軍のこころ37頁
  3. 『写真|日本の軍艦』p156-157
  4. 『真実の艦艇史2』p80-91