ティム・ヘンマン
テンプレート:テニス選手 ティム・ヘンマン(Tim Henman, 1974年9月6日 - )は、イギリス・オックスフォード出身の男子プロテニス選手。フルネームは Timothy Henry Henman (ティモシー・ヘンリー・ヘンマン)という。地元開催のウィンブルドンで4度のベスト4に入ったが、決勝戦には進出できず、2007年9月に33歳で現役を引退した。シングルス自己最高ランキングは4位。ATPツアーでシングルス11勝、ダブルス4勝を挙げた。身長185cm、体重77kg、右利き。
来歴
ティム・ヘンマンは両親の手ほどきにより、2歳半からテニスを始めた。彼の家族はイギリス国内でも名門のテニス一家として知られ、祖父のヘンリー・ビリントン(Henry Billington)はウィンブルドン選手権で1948年・1950年・1951年の3度3回戦進出、1939年全仏選手権ベスト8の経歴を持つテニス選手であり、曾祖母も1901年のウィンブルドン選手権に出場したことがある。1993年にプロ入り。1994年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップのイギリス代表選手となり、ウィンブルドンにもデビューを果たす。1994年4月に初来日し、東京・有明コロシアムの「ジャパン・オープン」3回戦でピート・サンプラスに挑戦した。
ティム・ヘンマンは、1996年のウィンブルドンの1回戦で、先の全仏オープンで優勝したばかりのエフゲニー・カフェルニコフ(ロシア)と対戦し、地元の声援の中でカフェルニコフを 7-6, 6-3, 6-7, 4-6, 7-5 で破った。その勢いに乗って初めての準々決勝に進んだが、アメリカのトッド・マーティンに 6-7, 6-7, 4-6 で敗れた。ウィンブルドン8強進出で躍進した1996年は、アトランタ五輪でもイギリス代表選手として男子ダブルスの銀メダルを獲得し、全米オープンでもステファン・エドベリとの4回戦まで進出した。
翌1997年のウィンブルドンで、ヘンマンは4回戦で前年優勝者のリカルド・クライチェク(オランダ)を破って2年連続2度目のベスト8に入ったが、準々決勝で1991年の優勝者ミヒャエル・シュティヒ(ドイツ)に敗退した。この年はATPツアー大会でも、シングルスで4度決勝に進み、ツアー年間2勝を挙げた。その後、彼はウィンブルドンで4度の準決勝進出があったが、1998年と1999年は2年連続でピート・サンプラス、2001年はゴラン・イワニセビッチ、2002年はレイトン・ヒューイットに敗れ、いずれも決勝進出はならなかった。
ティム・ヘンマンは従来サーブ・アンド・ボレー主体で、球足の速い芝生コートのスペシャリストの印象が強く、球足の遅いクレーコートや、ハードコートにおける戦績はいまひとつであった。しかし2004年、ヘンマンは30歳にして初めて全仏オープンと全米オープンの準決勝に進出した。全仏準決勝ではアルゼンチンのギリェルモ・コリアに 6-3, 4-6, 0-6, 5-7 で、全米準決勝ではロジャー・フェデラーに3-6, 4-6, 4-6 で敗れたが、両大会ではサーブ・アンド・ボレーのみに頼らない、オールマイティな力を示し、どんなサーフェスでも活躍できる実力を備えていることを証明した。ウィンブルドンでは、準々決勝でクロアチアのマリオ・アンチッチに敗れている。
しかし、2005年以降はウィンブルドンでの成績も下降する。それまで彼は9年連続で4回戦以上に進出していたが、2005年のウィンブルドンでは2回戦でドミトリー・トゥルスノフ(ロシア)に敗退してしまう。2006年の大会では、2回戦で第1シードのロジャー・フェデラーと顔を合わせた。2006年の「ジャパン・オープン」で、ヘンマンは2年半ぶりに男子ツアー大会の決勝に進んだが、フェデラーに 3-6, 3-6 で完敗して準優勝に終わり、これが彼の最後の男子ツアー大会決勝戦になった。
2007年8月23日、ヘンマンはデビスカップ「ワールドグループ・プレーオフ」の対クロアチア戦(9月21日-23日)を最後に現役引退することを表明した。現役最後の年、ウィンブルドンは2回戦でフェリシアーノ・ロペス(スペイン)に敗れ、全米オープン2回戦でジョー=ウィルフリード・ツォンガ(フランス)に 6-7, 6-2, 5-7, 4-6 で敗れた試合が、ヘンマンの4大大会最後の試合になった。現役最後の舞台に選んだデビスカップのクロアチア戦で、ヘンマンはシングルス第2試合と、ジェイミー・マレーと組んだダブルス戦の2試合に勝利を収め、イギリス・チームは2008年度の「ワールドグループ」復帰を決めた[1]。
地元イギリスではフレッド・ペリーが1936年にウィンブルドンで優勝して以来のイギリス人男子シングルス優勝者を待ち望んでおり、そのため“ヘンマニア”と呼ばれる過激な地元ファンが登場し、ウィンブルドンの1番コート近くの大型モニター前は、彼の試合会場に入れなかった“ヘンマニア”たちが詰め掛けて応援することから“ヘンマン・ヒル”と呼ばれるようになるなど、ウィンブルドンでのヘンマンの活躍はイギリスのテニス界に大きなブームを生んだ。現在はアンディ・マレーに期待が集まっている。
ATPツアー決勝進出結果
シングルス: 28回 (11勝17敗)
|
|
ダブルス: 6回 (4勝2敗)
結果 | No. | 決勝日 | 大会 | サーフェス | パートナー | 対戦相手 | スコア |
---|---|---|---|---|---|---|---|
準優勝 | 1. | 1996年7月29日 | テンプレート:Flagicon アトランタ五輪 | ハード | テンプレート:Flagicon ニール・ブロード | テンプレート:Flagicon トッド・ウッドブリッジ テンプレート:Flagicon マーク・ウッドフォード |
4–6, 4–6, 2–6 |
優勝 | 1. | 1997年10月5日 | テンプレート:Flagicon バーゼル | カーペット (室内) | テンプレート:Flagicon マルク・ロセ | テンプレート:Flagicon カーステン・ブラーシュ テンプレート:Flagicon ジム・グラブ |
7–6, 6–7, 7–6 |
優勝 | 2. | 1999年2月28日 | テンプレート:Flagicon ロンドン | カーペット (室内) | テンプレート:Flagicon グレグ・ルーゼドスキー | テンプレート:Flagicon バイロン・ブラック テンプレート:Flagicon ウェイン・フェレイラ |
6–3, 7–6 |
優勝 | 3. | 1999年4月25日 | テンプレート:Flagicon モンテカルロ | クレー | テンプレート:Flagicon オリビエ・ドレートル | テンプレート:Flagicon イリ・ノバク テンプレート:Flagicon デビッド・リクル |
6–2, 6–3 |
準優勝 | 2. | 2000年2月20日 | テンプレート:Flagicon ロッテルダム | ハード (室内) |
テンプレート:Flagicon エフゲニー・カフェルニコフ | テンプレート:Flagicon デビッド・アダムス テンプレート:Flagicon ジョン=ラフニー・デ・ヤーガー |
7–5, 2–6, 3–6 |
優勝 | 4. | 2004年4月25日 | テンプレート:Flagicon モンテカルロ | クレー | テンプレート:Flagicon ネナド・ジモニッチ | テンプレート:Flagicon ガストン・エトリス テンプレート:Flagicon マルティン・ロドリゲス |
7–5, 6–2 |
4大大会シングルス成績
大会 | 1992 | 1993 | 1994 | 1995 | 1996 | 1997 | 1998 | 1999 | 2000 | 2001 | 2002 | 2003 | 2004 | 2005 | 2006 | 2007 | 通算成績 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
全豪オープン | A | A | A | A | 2R | 3R | 1R | 3R | 4R | 4R | 4R | A | 3R | 3R | 1R | A | 18–10 |
全仏オープン | A | A | LQ | LQ | 1R | 1R | 1R | 3R | 3R | 3R | 2R | 3R | SF | 2R | 2R | 1R | 16–12 |
ウィンブルドン | LQ | LQ | 1R | 2R | QF | QF | SF | SF | 4R | SF | SF | QF | QF | 2R | 2R | 2R | 42–14 |
全米オープン | A | A | A | 2R | 4R | 2R | 4R | 1R | 3R | 3R | 3R | 1R | SF | 1R | 2R | 2R | 20–13 |