曹奐
テンプレート:基礎情報 中国君主 曹奐(そう かん)は、三国時代の魏の第5代皇帝。諡号は元帝。武帝曹操の孫にあたる。
生涯
燕王曹宇の末子として生まれる。甘露3年(258年)に常道郷公に封じられた。
甘露5年(260年)、先代皇帝の曹髦が司馬昭の専横に憤り、司馬昭を取り除こうとしたが、逆に殺害されてしまったため、その後継として即位した。実態は司馬昭の傀儡に過ぎなかった。
景元元年(260年)、司馬昭を相国にしようとしたが、司馬昭に固辞された。
景元4年(263年)、鄧艾・鍾会が蜀漢を攻めてこれを滅ぼした(蜀漢の滅亡)。
咸熙2年(265年)8月、司馬昭が死去し司馬炎が晋王を継いだ。同年12月、元帝は司馬炎に禅譲し、魏は5代45年で滅亡して晋に替わった。この時、数え年20歳だった。退位後は陳留王に封じられ、鄴に移り住んだ。
現在の河北省に曹奐の墓が現存している。
その後の曹氏
曹奐の没後も晋朝および宋朝冊封下の諸侯王として存続していた様子がある。子孫は魏の滅亡から200年以上、二王朝の下で陳留王を相続した。
曹奐の子の名は不明だが、太寧3年(325年)、曹操の玄孫である曹勱が東晋によって陳留王に封じられた。升平2年(358年)に死去し、363年に子の曹恢が跡を継いだ。曹恢は太元3年(378年)に死去し[1]、太元8年(383年)に子の曹霊誕が跡を継いだ[2]。曹霊誕は義熙4年(408年)に死去した[3]。元熙2年(420年)、劉裕が東晋から禅譲を受けて宋を建国したが、劉裕に禅譲を勧める上奏に、陳留王曹虔嗣が名を連ねている[4]。曹虔嗣は同年に死去し[5]、弟の曹虔秀が跡を継いだ。曹虔秀は大明6年(462年)に死去し[4]、子の曹銑が跡を継いだ。曹銑は元徽元年(473年)に死去した[6]。昇明3年(479年)、蕭道成が宋から禅譲を受け斉となったが、蕭道成に禅譲を勧める上奏に、陳留王の曹粲が名を連ねている。同年8月、曹粲は王位を除かれた[7]。
脚注