森田勝
森田 勝(もりた まさる、1937年(昭和12)12月19日 - 1980年(昭和55)2月24日)は、日本の登山家。東京都出身。
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経歴
1937年12月19日、東京都荒川区に4人兄弟の長男として生まれる。戦争中、埼玉県松伏に疎開、家族で自給自足生活に入る。小学生4年生の時に、母が死亡。父が再婚すると、野田の醤油工場に奉公に出される。中学校も卒業できぬまま実家に戻り、父の下で金型工の見習いとなる。そのころブームになりつつあった登山[1]を始めるようになる。
1959年に東京緑山岳会に入会。主に谷川岳でのクライミングにのめりこんで行く。金型工としての腕はあったが、山登りを優先し、職場を転々とする生活になる。
1966年、東京緑山岳会にも海外遠征の話が出始める。目標が南米最高峰のアコンカグアと決まり、森田も強く参加を希望する。しかし必要な費用の工面ができずに参加できなくなる。そこで、雪崩が頻発するため冬季登攀は不可能と見られていた谷川岳滝沢第三スラブ(三スラ)へ、岩沢英太郎との登攀を計画。危険すぎる計画に東京緑山岳会から脱会を言い渡されるが、1967年2月24日午前に取り付き。引っ切り無しに発生するチリ雪崩の中を登攀。ビバークの後、翌2月25日、チリ雪崩、雪の中をオーバーハングを乗り切り、同日夕方に初登攀成功。
1969年、木村憲司らとヨーロッパへ初の海外遠征。冬の間に、アルプス三大北壁(アイガー・マッターホルン・グランド・ジョラス)を登攀するという挑戦的な試みだった。1970年1月19日、アイガー北壁に取り付く。悪天候が続き、苦戦する。1月24日、頂上まであと300mのところで木村憲司が転落。左足を骨折する。1月27日、ヘリコプターで木村憲司が救助される。残された4人で、チリ雪崩の中を掻い潜り、午後2時に登頂成功。救助費用のため、残り2つの登攀は断念することになった。さらに後日、全員で無事にアイガー北壁登攀に成功した日本人パーティーと比較され、批判めいた批評も受けることになった。
1972年、アルパイン・ガイド協会に入会。プロの登山家となる。1973年、第2次RCCのエベレスト遠征に参加。森田の推薦で、長谷川恒男も参加する。遠征の目的は、エベレスト南西壁からの世界初登頂、南西壁からの初降下、秋季初登頂の3つ。森田は南西壁からの登攀隊長に選出される。荷揚げのシェルパが雪崩に巻き込まれて遭難。悪天候が長期化し物資の欠乏もあり南西壁からの登頂が困難になる。森田を含めた全メンバーが、ノーマルルート(東南稜)へ転進するか南西壁にとどまるかの選択を迫られる。森田らは、重広恒夫とともに南西壁からの登頂にこだわる。ノーマルルートには、加藤保男・石黒久のアタック隊とサポート隊(長谷川恒男ら)を行かせることに決定。加藤保男・石黒久は、秋季エベレスト初登頂に成功し、長谷川の頑張りによって、なんとか生還を果たす。森田隊は、重広恒夫が当時の南西壁ルートの最高到達点であった8,350 m地点まで到達するも、加藤保男らの救助のために大量の酸素ボンベを消耗したことで登攀続行が困難となり登頂を断念する。
1974年、結婚。山への情熱は衰えず、1976年、日本山岳協会によるK2登山隊に参加する。荷揚げ・ルート工作に人一倍働く。8月2日、登頂メンバーが発表されるが、森田は第2次アタック隊にまわされる。第1次アタック隊でルートを開き、第2次隊で確実に山頂を落とす計画だったとも言われているが、あくまでも一番にこだわる彼はそれを良しとせずに造反。体調を理由に下山してしまう。
1978年、長谷川恒男がアイガー北壁冬季単独登頂を世界で初めて成功させる。グランド・ジョラス北壁を冬季に落とすと、長谷川は世界初のアルプス三大北壁の冬季単独登頂に成功することになるはずだった。これを聞いた森田は、1978年12月8日、グランド・ジョラス北壁(ウォーカー側稜)、冬季単独登頂をねらいヨーロッパに向かう。翌年早々、アタックを開始するが、悪天候に阻まれる。2月になり長谷川恒男もドキュメンタリー映画[2]の撮影隊を従えて、麓のシャモニーに入る。森田は、2月18日、再度アタック。その日の午後1時、休憩中にフックが外れ、50メートル落下。4時間意識を失う。激しい痛みで意識を取り戻すが、すでに夕刻。しかも左足骨折。胸部打撲。左腕も動かない。宙づりのまま、幻覚と戦いながら夜を明かす。翌日、右手・右足と歯で25メートルの、文字通り決死の登攀を行う。6時間以上かけて、荷物のあったテラスに戻る。ここでまた夜を明かす。翌日、フランス陸軍の山岳警備隊に、ヘリコプターによって救助される。2月25日、絶妙のタイミングを見計らい、ライバルの長谷川恒男がグランド・ジョラス北壁に取り付く。幻覚幻聴まで感じながら、長谷川は、3月4日、グランド・ジョラス北壁を征服。世界で初めて、アルプス三大北壁冬季単独登頂の偉業を達成。予想以上に反響を呼び、日本のマスコミが大挙してシャモニーに訪れる。取材はシャモニーで入院していた森田に対しても容赦なく行われた模様。
帰国後、エベレスト登山隊への参加の話もあったが、K2での造反と骨折した左足にボルトが入っていることを理由にメンバー入りできず。
翌1980年の冬、まだ左足にボルトが入ったままグランド・ジョラスに現れる。森田の運営していた登山学校の村上文祐と、2月19日登攀開始。2月24日、行方不明。日本人アルピニストにより発見され遺体を固定される。2月25日、山岳警備隊が遺体を回収。およそ800メートル転落、即死したとみられている。
関連書籍
- 藤木高嶺著『ああ南壁:第二次RCCエベレスト登攀記』(朝日新聞社,1974年)ISBN 412-202878-7
- 広島三朗著『K2登頂幸運と友情の山』(実業之日本社,1978年)ISBN 4-267-01065-X
- 塚本珪一著『K2より愛をこめて』(東京新聞出版局,1978年)
- 日本山岳協会日本K2登山隊編『白き氷河の果てに:K2登頂1977日本K2登山隊公式報告書』(講談社,1978年)
- 本田靖春著『K2に憑かれた男たち』(文藝春秋,1979年)ISBN 4-8451-0719-8
- 佐瀬稔著『狼は帰らず:アルピニスト・森田勝の生と死』[3](山と渓谷社,1980年)ISBN 4-12-203286-5
- 加藤保男著『雪煙をめざして』(中央公論社,1982年)ISBN 4122009995
- 山際淳司著『山男たちの死に方:雪煙の彼方に何があるか-遭難ドキュメント』(ベストセラーズ,1984年)ISBN 4-12-204212-7
- 佐瀬稔著『長谷川恒男虚空の登攀者』(山と渓谷社,1994年)ISBN 4-12-203137-0
- 夢枕獏著『神々の山嶺(上・下)』(集英社,1997年)ISBN 4-08-747222-1,ISBN 4-08-747223-X
- 小説の主人公、羽生丈二のモデル。小説中には、K2での造反やグランドジョラスでの奇跡の生還も扱われている。
- 佐瀬稔著『残された山靴:志なかばで逝った8人の登山家の最期』(山と渓谷社,1999年)ISBN 4-635-17138-8
- 「異端の登攀者」刊行委員会編『異端の登攀者:第二次RCCの軌跡』(山と渓谷社,2002年)ISBN 4-635-17161-2
映画
- 『白き氷河の果てに』(1978年)監督:門田龍太郎