アルベルト・サントス・デュモン
テンプレート:Infobox Engineer アルベルト・サントス・デュモン(フランス発音)[1](テンプレート:Lang-pt 、1873年7月20日 - 1932年7月23日)はブラジル出身の発明家、飛行家。ヨーロッパの航空のパイオニアであり、主に飛行船の造船で有名。さらに、飛行機の公開実験にも成功しヨーロッパ初の飛行機製作者となっている。ブラジルでは飛行機の父、飛行機王と呼ばれるほど偉大な発明家であり、未完に終わったもののヘリコプターをも開発していたことで知られる。また、ブラジル有数の平和主義者であった。
目次
生涯
生い立ち
ミナスジェライス州の裕福なコーヒー農園主の末っ子として生まれた。父のアンリが仕事中に落馬、骨盤を骨折して農園経営が不可能になったため、家族で祖先の国であるフランスに渡った。
飛行家として
成人後にフランスで飛行船や航空機の開発に熱中し、様々な飛行記録をつくった。1901年には半硬式の飛行船6号機で、制限時間内にエッフェル塔の周りをまわる飛行にかけられたドゥーチ賞を獲得。
アメリカのライト兄弟に遅れること3年、1906年10月22日にエンテ型の動力機「14-bis」号の公開実験で高さ3m、距離約60mを飛行。11月12日再び公開で高さ6m、距離220mを飛行し、100m以上の飛行にかけられていたアルシュデック賞(アルクデアコン賞)を獲得した。これはヨーロッパにおける最初の飛行機の飛行であった。なおデュモンは、この成功において賞金を慈善活動に供したのみだけでなく機体の特許を取らず、むしろ逆に誰にでも飛行原理を理解出来るよう設計図を公開してさえいる。
引退後
1910年頃から多発性硬化症を発病し、引退してパリ郊外に家を買って隠遁生活をしていた。しかし、第一次世界大戦が勃発し、飛行機や飛行船が兵器として使用された事実に失望し、ヨーロッパを去り生国ブラジルに帰った。ところが、平和の国と信じて帰ったブラジルでもその飛行機が内戦鎮圧に使用された。
デュモンは著名人の署名を集め、飛行機を戦争に使用しない提言を行ったが、大統領や国会はこれを黙殺した。デュモンはこれに絶望し、この後サンパウロ州グァルジャーのホテルでネクタイで首を吊って自殺した。ライト兄弟同様、生涯独身だった。
名を冠した公共施設・叙勲、その他
現在のブラジルではデュモンの名が大きく残され、その名を冠した空港、博物館等の公共施設や勲章の他、催しも多く存在している。
サントス・デュモン空港
ブラジルのリオデジャネイロ市内にある国内線発着空港
大統領機サントス・デュモン
5600万ドル以上の巨費を投じて建造られたエアバス社製のドイツ大統領専用機
サントス・デュモン絵画展
ブラジルで開催される権威ある絵画展
- 金賞:宇江木リカルド
サントス・ドゥモン勲章
ブラジル空軍によって授与される勲章
- 受賞者:小野田寛郎
サントス・デュモン功労賞
交通に関する功労者に対してブラジル政府より授与される
- 受賞者:松澤正二
ファッションリーダー
デュモンはファッションのセンスにも優れ、トレードマークである襟の高いハイカラーシャツを着ていた。 また、フランスの宝石商カルティエの腕時計『サントス』は、彼の依頼によって作られたパイロット用腕時計を原型としている。ブラジルでは彼を飛行機や腕時計の発明者と信じる人が多いが、これは誇張である。
その他
1942年から1967年にかけて発行された10,000クルゼイロ紙幣の表面に、デュモンの肖像が採用された。この紙幣はデノミネーションによる通貨単位改定後も、10新クルゼイロ紙幣としてしばらくの間使用された。
参考文献
ナンシー・ウィンターズ著 忠平美幸訳『空飛ぶ男 - サントス・デュモン』草思社 2001年 - 数多くの埋もれていた史実を掘り起こして書かれた評伝。
関連項目
脚注
- ↑ サントス・ドゥモン(ブラジル発音)と記載されることもある。