ゲルマニア (書物)
『ゲルマニア』は、ローマの歴史家タキトゥスが、ゲルマニア地方の風土や、その住民の慣習・性質・社会制度・伝承などについてラテン語で記述した書物である。紀元98年の作。紀元9年のトイトブルクの戦いの場所を記したのもこの書物においてである(ただし実際に起きた場所とはまったく異なる)。
執筆の意図
ローマ帝国の外縁に住むゲルマニア人(ゲルマン人)についてのタキトゥスの記述はいろいろな偏見の入り混じったものであった。タキトゥスは、彼の目には退廃していると映っていた当時のローマ人と比べて、ゲルマニア人の性質を「高貴な野蛮人」だという見方で伝えた。
このような描写のおかげで、この著作は16世紀以降のドイツ、特にドイツの民族主義者やロマン主義派に人気がある。また彼は、ローマが接触をもった部族の名前を多く記録していた。
学術的な批判
このようなタキトゥスの『ゲルマニア』は、文人としての彼を賞賛する同時代人や、汎ゲルマン主義を主張する現代ドイツ人から高い評価を得ていたが、同時にその主張の偏りや正確性に数多くの批判が寄せられている。
特にタキトゥスの記録した情報は彼が直接見たり聞いたりしたものではなかったため、フィールドワークを基本とする今日の民族学・文化人類学の観点からはその記述の正確性が疑問視されている。タキトゥスは実際にゲルマニアを訪れたことは一度もなく、他者の伝聞を元に「家の中」で未開の地について記述した。さらに伝聞も当時の目からみても相当に古く、偏見で歪められたものを用いるなど情報の取捨選択でも偏りがあったことを指摘されている。また古代ローマ史研究の大家である歴史学者ロナルド・セイムは、『ゲルマニア』は大プリニウスの著作を孫引きして書かれたものではないかとする説を提示している。
また歴史学の観点からも、タキトゥスを初めとする近代以前の歴史研究はしばしば史実よりも読み物としての面白さや、自らの政治的主張を織り交ぜて行われることが常態となっており、いわば文学の一端であったと指摘されている(歴史家と歴史学者の違いを参照)。そのため、既に編纂された歴史書である『ゲルマニア』についても、その信憑性は常に問題がある資料といい得る。
近年の研究では、その記述の多くが不正確であることが実際に証明されているが、そもそも古代の時点で、タキトゥスと同時代の歴史家たちも、『ゲルマニア』に登場するすべての部族が本当に共通のゲルマン語を話す民族であるのか疑わしいと批判している。
別系統の可能性がある部族
テンプレート:独自研究範囲、プシェヴォルスク文化に属するヴァンダル人(系統不明のテンプレート:仮リンクを含む)はスラヴ系(あるいはスラヴ系を含んだ多民族混交)の部族ではないかとする説がある[1]。また紀元前にキンブリ・テウトニ戦争で将軍ガイウス・マリウスに敗れて滅んだキンブリ人もケルト系の部族と言う説がある[2]。