豊臣秀保
テンプレート:基礎情報 武士 豊臣 秀保(とよとみ ひでやす/とよとみ の ひでやす)/羽柴 秀保(はしば ひでやす)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣氏の家臣。豊臣秀吉の姉・瑞龍院(とも)の子で、後に豊臣秀長の養子となる。大和国の領主にして官位が中納言であったため大和中納言(やまと ちゅうなごん)と通称された。
生涯
天正7年(1579年)、木下弥助(三好吉房)とともの三男として生まれる。幼名は辰千代(たつちよ)。長兄に豊臣秀次、次兄に豊臣秀勝がいる。
豊臣氏の連枝として幼少より昇進を重ね、天正19年(1591年)1月に継嗣のない叔父・秀長の4・5歳になる娘と祝言をあげ、養子として披露された[1]。同月に秀長が死去するとその跡を継ぎ、郡山城主となる。藤堂高虎と桑山重晴が秀保の後見役を務め、大和・紀伊2か国を領した。同年従四位下参議に任じられ、豊臣姓を下賜された。
文禄元年(1592年)の文禄の役では、兵1万5千を率いて名護屋城に参陣するが、自身は渡海せず、名護屋城下に陣屋を築いて2年間滞在した。ただし配下の紀伊国衆(堀内氏善)や藤堂高虎、桑山元晴・一晴、杉若氏宗・無心らは渡海して水軍として戦っている。また本多俊政は壱岐勝本城に兵500を率いて在番し、朝鮮渡海軍のための兵站物資の海上輸送と島内の治安維持に当たった。
文禄2年閏9月25日には藤堂とともに名護屋を引き上げ下関まで戻り、更に上洛した。同年従三位権中納言となり、以降「大和中納言」「郡山中納言」と呼ばれた。文禄3年(1594年)2月には、吉野の花見で秀吉、秀次、菊亭春季らとともに和歌を詠んでいる。
死と死因
死因については後述の俗説が存在するが、桑田忠親の研究に拠ると、同時代の駒井重勝による『駒井日記』等の史料から、文禄4年(1595年)4月に病気療養のために大和国十津川へ赴いたが、10日頃から疱瘡か麻疹の一種と見られる病状が見られ、13日の夜には吉田浄慶・16日の夜には曲直瀬正琳などの医師の投薬を受けた結果、14日には一時回復を見せたが、再び15日の朝から病状が悪化し、16日に死去したとされる。
一方、俗説について変死説が散見されており、例えば『武徳編年集成』では悪評の羅列の後に、吉野川上流で小姓の勇気を試すために崖から飛び降りることを命じたが服せず、小姓が秀保に飛びついてともに落下して溺死したとされるが、これは文禄3年とされていて時期とともに整合しない。[2]
大和豊臣家の断絶
秀保は従姉妹に当たる秀長の娘おきくを正室としていたが、子女は無く、以前秀長の養子だった仙丸もすでに藤堂高虎の養子となって藤堂高吉と名乗っていたために、大和豊臣家は断絶した。なお、前述のとおり、子女を残さなかった為、長兄秀次、次兄秀勝と違い、三兄弟の中で唯一秀保の血筋だけは後世に伝わらなかった。
人物・逸話
テンプレート:出典の明記 「殺生関白」の異名をとったという兄・豊臣秀次と同様の悪評が伝わる。ただし秀次に関する風評と同じ様に、これらの秀保に関する風評もまた事実でない可能性が高いと考えられている。
- 嗜好殺人などの非道行為を繰り返した暴君だったという。
- 秀保は臨月の婦人を捕らえ「腹を割いて胎児を見せよ」と命じた。妊婦は驚き、尼となって助命嘆願をしたが許されなかったため、腹を割いて胎児を出し、池に身を投げたという(尼が池)。
- 秀保が忍術師に「この池から大蛇を出して見よ」と命じた。忍術師が呪文を唱えると、空池が満ちていき、大蛇が出現して秀保を一呑みしようとしたため、秀保は慌てふためいて郡山城に逃げ帰った。そのため、家臣は二度と大蛇が出現しないように池底の穴を大石で埋めたという(蛇が池)。
脚注
関連項目
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