松野泰己
テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:Infobox 芸術家 松野 泰己(まつの やすみ、1965年(昭和40年)10月24日 - )は、新潟県妙高市(旧・新井市)出身のゲームクリエイター。法政大学経済学部中退。A型。
『オウガバトルシリーズ』や『イヴァリースシリーズ』など、SRPG作品を中心に制作している。
目次
経歴
クエスト入社前
中学3年生の時、ゲームの虜となる。当時はまだゲームセンターのイメージが良くなく、人目を避ける為わざわざ地元から離れた土地まで通い詰めていた。 大学では映画研究会に所属。友人達とアルバイトをして稼いだ資金で自主制作映画を手掛け、ものつくりの楽しさに触れた。 その後、経済誌のライターを務めた。
クエスト在籍時代
1989年にクエストに入社。彼の作品の中心メンバーとなる皆川裕史、吉田明彦、岩田匡治(彼を介して崎元仁とも)と出会う。いくつかの作品の企画参加を経て『オウガバトルシリーズ』を製作。
スクウェアへの移籍
1995年9月、『タクティクスオウガ』のマスターアップの終了後、発売を待たずにクエストを退社した。以前より松野は『タクティクスオウガ』が完成したらクエストを辞める約束をしていたという。その後、当時スクウェアに在籍していた三原一郎(現アリカ副社長)に誘われスクウェア(現スクウェア・エニックス)に入社した。これに関しては「スクウェアからの引き抜きがあったのでは」という疑惑も挙がったが、ファンサイトの電子掲示板で「クエスト退社の理由は『経営陣との方針の食い違い』からである」と否定した。同時にクエストの社員である皆川裕史と吉田明彦も移籍しているのは、松野自身からの誘いによる移籍であり、スクウェアの関与ではない。
スクウェア在籍時代
スクウェアでは最初に『ファイナルファンタジータクティクス』を任せられる。クエストから呼び寄せた旧知のスタッフと、スクウェアの伊藤裕之達と共に約1年の製作期間で完成させた。『タクティクスオウガ』に酷似していたために物議を醸すこととなったが、シミュレーションRPGでは異例の100万本を越える売り上げを達成した。その後『ベイグラントストーリー』を制作。独自路線を強く出しすぎたためか売上は不振で、ディレクターを辞職し、チームを解散した。
『FFXII』の製作と途中降板
その後はスクウェアの提供するネットワークサービス『PlayOnline』に関わり、2002年、スクウェアがソフト製作部門に事業部制を導入すると共に、第4開発事業部部長として執行役員も務めた。坂口博信の推薦で『ファイナルファンタジーXII』のプロデューサー、ディレクター、シナリオを担当。それと並行して、クエストのゲーム事業がスクウェアへ譲渡された縁で、旧クエストのメンバーと合流。彼らがメインで開発した『ファイナルファンタジータクティクスアドバンス』のプロデューサーや原案を務めた。しかし、『FFXII』の開発途中でメディアでの露出が無くなり、2005年3月、執行役員から解任。同年8月には病気療養による降板が発表され、取締役員の河津秋敏がエグゼクティブプロデューサーに就任し、松野は監修・原案として開発に関わることになった。のちにスクウェア・エニックスはユーザーのEメールへの回答で「2005年8月末をもって退職した」と発表している。松野はTwitter上でユーザーに退社理由を聞かれ、病気療養による降板という公式情報以上でも以下でもなく、ファンや各関係者に迷惑をかけてしまったことに対するけじめを取ったと答えている。
海外メディアへのインタビュー[1]において河津は、上記2作の参加とシナリオの遅れが『FFXII』製作遅延の原因と語っているが、「電撃PlayStation」Vol.406のインタビューにおいてはディレクターの伊藤が、バトルシステムの構築にはそのくらいの時間が必要だったとも語っている。
退職後の動向
降板後は沈黙が続いたが、2006年9月14日の任天堂主催"Wii Preview"の会場内で放映された開発者インタビューに登場した[2]。Wii用ゲームソフトのアイデアを練っているとのことで、これが実に2年ぶりのメディアへの登場となった。その後、崎元仁が海外のインタビュー[3]で「現在、彼と一緒に仕事をしている」と答えている。2009年現在判明している仕事としては、プラチナゲームズ製作・スパイク販売(海外版はセガが販売)の『マッドワールド』のシナリオ製作と世界観構築に携わっている[4]。2010年2月よりTwitterを始め、何らかの仕事に携わっている旨の発言をしていた。そして2010年7月、PSP専用ソフト『タクティクスオウガ 運命の輪』がスクウェア・エニックスからリリースされることが発表され、松野以下オリジナル版の主要スタッフ全員が製作に参加していることが明らかになった。2011年6月にレベルファイブに入社[5]、『GUILD01』に収録された『CRIMSONSHROUD(クリムゾンシュラウド)』の製作を手がける。2012年11月にダウンロード版『CRIMSONSHROUD』の調整を終え、同社を退社したことをTwitterで報告した[6]。2013年9月19日、東京ゲームショー2013にてPlaydekが開発するカードゲーム『アンサング・ストーリー(UNSUNG STORY)』の世界観設定と、同社のタクティクスゲーム『アンサング・ストーリー:名もなき戦士たちの物語(仮)』の世界観設定やゲーム原案(システム設計)などを担当していることが発表された[7]。
作風
世界観の構築を非常に重要視したゲーム作りを行う事で有名であり、シナリオ制作にあたってはまず歴史や神話、文化や政治体制など世界の根幹となる部分を細密に設定し、それらを土台とする広大な空想世界を創造(『オウガバトルサーガ』や『イヴァリース』)、その中の出来事として物語を作るというスタンスを取る。製作するストーリーラインの多くは西洋ファンタジー調を基とし、国家、宗教、人種間の紛争に及んだ複雑なものである。
しばしば作中にクイーンの引用が見られる。作品には曲から物語の着想を得たもの、サブタイトルや地名をそのまま曲名にしたもの、クイーンにちなんだ固有名詞などがいくつか入っている。
製作しているジャンルがRPG、SRPG中心なのは、あくまで「商品としてのゲーム」を製作しているためであると話している。オウガバトルを製作したきっかけはマニアックなジャンルであったシミュレーションゲームを万人受けする水準まで引き下げた『ファイアーエムブレム』のヒットによるものであり、「シューティングゲームを製作したい」と述べたこともある。
製作現場における自らの役割については「自分はゲームクリエイターではなく、あくまで制作を統括するビジネスマンでありたい」と発言している[8]。一方で、ゲームクリエイターとして「やるからにはなんでもやりたい」とし、自らが制作する作品には監督として大部分に関わり、特に『ファイナルファンタジーXII』は超大作級の作品でありながら、制作総指揮・監督・脚本と異例とも言える多くのポジションを担当していた。事実、ゲーム製作の根幹を担うプログラミングに関しては全くの素人であると語っている。またシナリオに関しても「仕方なく書いている」という主旨の発言をしている。
逸話
- 「ファミ通」のクロスレビューで40点満点を記録した15作品のうち2作品は、松野が開発に携わった『ベイグラントストーリー』、『ファイナルファンタジーXII』である。
- オンラインゲームに造詣が深く、『ファイナルファンタジーXI』以外にも『ウルティマオンライン』を5年以上続けていたという。これ以前にも、アマチュアによる『タクティクスオウガ』についてのインタビューをパソコン通信で回答したり、自身の作品のネット上での評価を気にしていたりと、オンラインゲームが一般的に広まる以前からインターネットを積極的に用いていた様である。
製作作品
以下、クエスト時代
- 1990年 - 魔天童子
- 1991年 - レジェンド-明日への翼-
- 1991年 - マジカルチェイス - スペシャルサンクス
- 1993年 - 伝説のオウガバトル - ディレクター・脚本
- 1995年 - タクティクスオウガ - プロデューサー・ディレクター・ゲームデザイン・脚本
以下、スクウェア時代
- 1997年 - ファイナルファンタジータクティクス - ディレクター・脚本
- 2000年 - ベイグラントストーリー - プロデューサー・ディレクター・脚本
- 2001年 - PlayOnline - 開発プロデューサー
- 2003年 - ファイナルファンタジータクティクスアドバンス - プロデューサー
- 2006年 - ファイナルファンタジーXII - 原案・シナリオプロット・監修(元プロデューサー・ディレクター・シナリオ)
以下、スクウェア退職後
- 2009年 - MAD WORLD - 脚本協力
- 2010年 - タクティクスオウガ 運命の輪 - ゲームデザイン・シナリオ
- 2012年 - クリムゾンシュラウド(GUILD01) - ディレクター