ボブ・マーリー
テンプレート:Infobox Musician ボブ・マーリー(Bob Marley、1945年2月6日 - 1981年5月11日、出生名ロバート・ネスタ・マーリー Robert Nesta Marley)は、ジャマイカのレゲエミュージシャン。その音楽はラスタファリ運動の思想を背景としており、彼の音楽と思想は数多くの人々に多大な影響を与えた。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第19位[1]。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第11位。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第31位[2]。
目次
来歴
幼少期
1945年2月6日にジャマイカ・セント・アン教区のナイン・マイルズで、白人のイギリス海軍大尉であり、ジャマイカ最大の建設会社「マーリー・アンド・カンパニー」を経営していたノーヴァル・マーリー (en) と、ジャマイカ人(黒人)のセデラ・ブッカー (en) との間に生まれる[3]。当時、父親は61歳、母親は18歳だった。両親はボブの誕生後すぐに別れた。父親は首都キングストンで、ボブは母親とその家族と共にナイン・マイルズで幼少期を過ごした[3]。
ボブはナイン・マイルズ近郊のステプニーでステプニー・オール・エイジ・スクールに通い、そこで後に共にウェイラーズを結成することとなるネヴィル・リヴィングストンと出会っている[3]。
トレンチタウン
ボブが10歳のときに父が死に、それまで受け取っていた経済的な援助がなくなった。母は息子を連れ職を求めてキングストン郊外のスラムに移り住んだ。周囲の黒人とは異なる容姿から「ドイツ人」というアダ名がつき、それを嫌って靴墨で顔を塗ることもあった。ここでバニー・ウェイラーと共に音楽活動を開始し、1959年に14歳のときには音楽に専念するため学校を中退した。
21歳の時に19歳のリタ・アンダーソンと結婚した。
トレンチタウンに在住しジョー・ヒッグスに音楽的薫陶とラスタファリ運動の教えを受ける。
1962年、レスリー・コンのビバリーズ・レーベルから「One Cup of Coffee」、「Judge Not」を発表しプロとしてデビューする。なお、上記2楽曲のシングルにはボビー・マーテル(Bobby Martell)と表記されていた。
ウェイラーズ結成
テンプレート:Seealso 1963年 ピーター・トッシュらとティーネイジャーズ(後にウェイラーズへと改名)を結成しデビュー。当初は6人組だった。
1970年、キングストン市ホープロード56番地に自身のスタジオ、レーベルであるタフ・ゴングを設立。
1972年、アイランド・レコードと契約し、翌年メジャーデビューアルバム『キャッチ・ア・ファイア』をリリース。
ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ
テンプレート:Seealso 1974年 エリック・クラプトンがカヴァーしたマーリーの楽曲「アイ・ショット・ザ・シェリフ」が全米ビルボードチャート1位を獲得する。同年、バニー・ウェイラー、ピーター・トッシュがウェイラーズから脱退したため、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズとして新たに活動を開始して、10月にアルバム『ナッティ・ドレッド』を発表。
1976年、プロデューサーのクランシー・エクルズらと共に人民国家党 (PNP) の政治キャンペーンに参加したことからマイケル・マンリー率いるPNPと、エドワード・シアガが率いるジャマイカ労働党 (JLP) の二大政党の対立抗争に巻き込まれ、12月3日に狙撃され重傷を負い、亡命を余儀なくされる。
1977年、モデルで1976年度ミス・ワールドのシンディ・ブレイクスピアと交際を開始。
1978年 ジャマイカに舞い戻り、4月22日にキングストンで「ワンラブ・ピース・コンサート」に出演する。このとき、コンサートを見に来ていたマイケル・マンリーとエドワード・シアガの2人の党首をステージ上に招き、和解の握手をさせた。7月21日、シンディがダミアン・マーリーを出産する。
1979年には、4月から日本、オーストラリア、ニュージーランドで公演を行った。さらにかねてからの念願であったラスタファリズムの聖地、エチオピアを訪問。このときの体験をもとにアルバム『サヴァイヴァル』を発表している。
1980年 アフリカ訪問、さらにアルバム『アップライジイング』発売。 西アフリカ、カンボジアの大統領の誕生日パーティーで演奏。
死
サッカーをプレーしていた際に足の親指を負傷、それが原因となり悪性のメラノーマを発症したとの都市伝説があるが、実際には以前から発症していた癌が足の親指に出現し発覚したものである。医師からは親指を切断することを勧められたが、マーリーは宗教的な理由でこれを拒否し、部分切除を行った。しかし、やがて腫瘍は全身に転移し、手を付けられない状態まで悪化した。
1981年5月11日、療養先のドイツからジャマイカに向けて帰国の途のつく途中で容態が悪化、アメリカ・フロリダ州の病院で妻と母に見届けられ、死去。最終的な死因は脳腫瘍と癌の肺への転移によるものとされている。テンプレート:没年齢。同月21日、キングストンにて国葬された。
使用楽器
愛用のギターはボディとネックに1ピースマホガニー、指板はローズウッドを使用し、ピックアップにP-90を2基搭載したギブソンのLes Paul Specialであるが[4]、1979年の来日公演時にヤマハ・SG-1000を贈られ、日本、オーストラリア、ニュージーランドでの公演時にはこれを使用した[5]。
評価
二律背反的な、危うい挑発的な構成がその作品を魅惑的なものとさせている要因である。『I Shot the Sheriff』は、Gm・Cm・D#・Dm のたった4つのコードと1つの印象的なフレーズのみで構成される。この極めてシンプルなコード進行と、それを裏切るような「俺は保安官を殺した」という告白体で進行されるショッキングな詩とが、不可思議で絶妙なバランスをもって同居している。さらに、「俺は撃ったが法の代行者を撃ったわけじゃない」という抽象的な観念と「保安官のジョン・ブラウンはいつも俺を憎んでいた」という具体的な現実とがやはり同等の価値をもって同居する。この特徴は、例えば『Get Up Stand Up』の、基本Bmのみによるコード進行、そして「権利のために立ちあがれ」の抽象に対する「牧師さんよ、天国があるなんてデタラメ言うのはやめてくれ」の具体など、多くのボブ・マーリー作品に見受けられるものであり、彼の曲を印象付ける決定的な要因となっている。
影響
マーリーを題材にした作品
- 『「i and i」after Bob Marley 21,000miles』 - ボブの映画助監督・ダラス・ロジャーズが監督を務めたレゲエ・ドキュメンタリー映画。
ディスコグラフィ
来日公演
- 1979年 4月5日・6日 東京厚生年金会館、4月7日 渋谷公会堂、4月10日 中野サンプラザ、4月11日 大阪厚生年金会館、4月13日 フェスティバルホール
- 4月7日、10日は、1日2回公演で行われた。
脚注
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 3.0 3.1 3.2 藤川 (1996) p.40
- ↑ Bob Marley Les Paul Special Guitar - www.zuitar.com
- ↑ Feud Brewing Over Marley Guitar - www.riddimjamaica.net
参考文献
- スティーヴン デイヴィス『ボブ・マーリー—レゲエの伝説』晶文社、1986年 ISBN 978-4-7949-5066-6
- 『ボブ・マーリー レジェンド』(2006年)ISBN 978-4-86020-147-0
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