玉縄城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年2月12日 (水) 11:41時点における203.180.68.16 (トーク)による版 (現在)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

玉縄城(たまなわじょう)は相模国鎌倉郡玉縄村(現在の神奈川県鎌倉市玉縄地域城廻)にあった平山城甘縄城ともいう。

城の歴史

北条氏時代

永正10年(1513年北条早雲(伊勢盛時)により築かれた。城の外堀が柏尾川と直結し、相模湾まで舟を繰り出す事が可能だった関係で水軍などを統括する重要拠点となった。更に鎌倉に近いことから鎌倉の防衛という面でも重要な役割を果たした。

大森氏小田原城を奪い、西相模に進出した北条早雲は東相模の相模三浦氏と争うが、長期戦となった。この際、同氏の主筋である武蔵の扇谷上杉家当主上杉朝興が三浦氏の援軍として挟撃してくる事への備えが必要とされ、三浦半島の付け根に当たるこの地に玉縄城が築かれた。三浦氏滅亡後は安房里見氏に対する押さえとしての役割を担った。

北条氏時代には、一門の重要人物が城主として置かれた。初代城主氏時は早雲の実子、2代城主為昌氏綱の実子であり、為昌の急逝後は氏綱の娘婿で長く城代として為昌を補佐してきた北条綱成が「為昌の養子」という名目で3代城主となった(ただし、実際の年齢は綱成の方が上である)。以後、綱成の子氏繁、氏繁の嫡男氏舜、その弟氏勝と4代にわたって城主の地位が継承された[1]

堅城として知られ、大永6年(1526年)11月26日に足利義明に呼応して鎌倉へ攻め入った里見義豊里見実尭を大将とする説もある)の軍勢を撃退したときをはじめ、度々里見氏の攻撃を退けた。また上杉謙信武田信玄が相模へ乱入した際も攻略をあきらめたほどである。豊臣秀吉による天正18年(1590年)の小田原征伐においては、徳川家康の攻撃を受け、守将北条氏勝は降伏・開城。以降徳川氏の支配下になる。

徳川氏時代

徳川政権下においても玉縄城は重要視され、家康側近の本多正信の居城となり、その後は一門の長沢松平氏の居城となった。元禄16年(1703年)2月10日、長沢松平氏が上総国大多喜藩転封となったのを機に玉縄城も廃城となった。テンプレート:Main2

現在

昭和30年頃までは比較的多くの遺構が残っていたようであるが、昭和38年(1963年)に女子高の清泉女学院中学高等学校が城跡に移転して以降、その多くが破却された。破壊を免れた遺構としては、城の最高部であったと言われる土塁「諏訪壇」があるが、樹木が生い茂り、実際に訪れても形状の把握は難しい。また、清泉女学院校門前に安置されている巨石は、玉縄城遺構の一部と言われる。

近年は宅地化が進み周囲に数多くのマンションが建築された。清泉女学院中学高等学校に隣接する住宅地に「早雲台」、周辺地域に「城山」「城廻」「関谷」「植木」等の地名を残し、辛うじて龍寶寺から玉縄城大手口へと至る七曲坂、久成寺(鎌倉市)から同じく大手口へいたる、ふわん坂・陣屋坂等が残っているが、それ以外に往時の状況を偲ぶ事は困難である。学校警備の関係上、城跡の見学は自由にはできない。

一方でその地域は自然環境に恵まれ、清泉女学院中学一年の理科野外実習は校内で行われるほどである。

歴代城主

後北条氏時代
北条氏時
北条為昌
北条綱成
北条氏繁
北条氏舜
北条氏勝
本多氏時代
本多正信
長沢松平氏時代
松平正綱
松平正信
松平正久

周辺

周辺の史跡

ファイル:Tamanawakubiduka01.jpg
玉縄首塚。中央の五輪塔が首塚とされる。画面右手の案内板には里見氏側の大将を「里見義弘」としているが誤り
龍宝寺
玉縄首塚
甘縄首塚とも。大永6年に起きた大永鎌倉合戦で里見氏との戦いで討ち取られた北条方の将を弔った塚で柏尾川沿いに建っている。毎年8月19日に「玉縄史跡まつり」と題し供養を兼ねた祭りが開催されている。塚の脇には首塚の成立過程を記した石碑が建っている(昭和43年(1968年)建立)

最寄の鉄道駅はJR大船駅

出典・脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

  • 佐藤博信『中世東国の足利・北条氏の研究』岩田書院、2006年 ISBN 978-4872944266 第8章「北条為昌と北条綱成」(原論文1986年)・第9章「玉縄北条氏の研究」(原論文1975年)