ジョー・マッセリア
テンプレート:Infobox 犯罪者 ジョー・マッセリアことジュゼッペ・マッセリア(テンプレート:Lang-en, 1879年 - 1931年4月15日)、通称ジョー・ザ・ボス(Joe the boss)は、イタリアおよびアメリカ20世紀初期のコーサ・ノストラのボスである。
生涯
初期の人生
シチリア島カステッランマーレ・デル・ゴルフォで生まれた(トラパニ出身という資料もある)。 1903年、シチリアでの殺人容疑から逃亡する為にアメリカに移民し、ニューヨーク、ローワーイーストサイドのモレロ・ギャング団の殺し屋となった。
1916年、ニック・モレロが死亡すると、モレロ・ギャングはいくつかの派閥に分かれて内紛状態となり、マッセリアはそのうちの一つの派閥のリーダーとなり、影響力増大の為に抗争に加わった。 この内紛において、マッセリアはブルックリンのマフィアのリーダーであったサルヴァトーレ・"トト"ダクイッラの支援を受けたと言われている。 モレロの死後、ダクイッラはマフィアのファミリー間の仲を取り持つ相談役と考えられていた。それはダクイッラの知性が他の者たちに一目置かれ、彼が常に平等的な立場で、他のリーダー達との重要な問題について、よく相談に乗られていたことを意味していた。 しかし、それはダクイッラが必ずしも他のファミリーや派閥に対し直接的に口を出し、そして他の者たちが、彼に対してなんらかの特別な見返りを送ったというわけではない。 後の研究者たちの中には、ダクイッラを最初の「Capo-di-Tutti-Capi」、後にマッセリアが狙った地位である「ボスの中のボス」だと誤って同一視していた。
「弾の当たらない奴」
1922年、マッセリアは自宅前で、敵対していたロッコ・ヴァレンティ(ウンベルト・ヴァレンティ)の待ち伏せに遭った。ヴァレンティはマッセリアが2人のボディガードを連れて通りを歩いているのを発見し、彼らに向かって銃を発砲した。この襲撃によって、ボディガードは死亡したが、マッセリアは無傷であった。マッセリアは素早く近くのヘイネイ婦人帽子店へ身を隠した。 ヴァレンティは空になった銃を再装填しながら、マッセリアを追って店内にて銃撃したが、マッセリアはうまく逃げ回り、まもなくパトカーのサイレンが聞こえてくると、ヴァレンティは諦めてその場から退散した。 危うく難を逃れたマッセリアは彼の帽子に穴が数個空いただけで助かった。 この事件によって、マッセリアは「弾丸をかわすことが出来る男」として、マフィア内での名声が高まった。
モレロ・リーダー
襲撃事件の翌月、マッセリアはロッコ・ヴァレンティとモレロギャングのリーダーだったピーター・モレロとの和平の準備に取り掛かった。そして、ボスの座を譲る用意があると彼らにほのめかした。1922年8月11日会談当日、ヴァレンティらは取巻き3名を引き連れて、会談場所のレストランに到着、マッセリアの配下3人が彼らを出迎えた。 ヴァレンティと取巻きらはしばらく愛想よく会話していたが、実はマッセリアとモレロとの間に密約がなされており、ヴァレンティらは嵌められているのにしばらく気がつかなかった。そして、ようやく嵌められた事に気づいたヴァレンティは、銃を取りに行き、マッセリアらと銃撃戦を始めた。そして、ヴァレンティの部下2名が倒されると、分が悪いと悟ったヴァレンティはその場から逃亡した。 マッセリア側も彼をし止めようと後を追いかけたが、途中で街路掃除人や8歳の少女を射殺。ヴァレンティは通りがかったタクシーのサイドステップに乗って応戦し始めた。 だが、ヴァレンティは追跡者の1人により撃たれ、路上に転がり落ちた。それが彼の最後だった
そして、モレロ・ファミリーの新しいボスはジョー・マッセリアとなった。そしてナンバー2の地位にはピーター・モレロが選ばれた。ピーター・モレロにとって、このナンバー2の地位は警察からの不当な監視から逃れたいという彼の願望にも一致していたのかもしれない。ボスになったマッセリアの下で相談役またはアドバイザーの地位は彼にとって安泰をもたらしていた。
ジョー・ザ・ボス
1928年7月、フランキー・イェールが死んだ。彼の死はニューヨーク・マフィアの全体的なリーダーになるというマッセリアの野心の促進剤であったように見える。 同年10月、ブルックリン区を支配していたマフィアボス、サルヴァトーレ・"トト"・ダクイッラがピーター・モレロらによって殺された。ダクイッラはかかり付けの医院からの帰宅途中、3人の男に通りで声をかけられた。会話しているうちに次第に議論が白熱化し、男のうちの1人が銃を抜いて、ダクイッラを射殺した。以前から、ダクイッラとモレロの関係が悪化しつつあることは知られていた。おそらく原因はニューヨーク・マフィア内でのダクイッラの相談役としての地位の上昇が、モレロには我慢できなかったのだと思われる。そして、この件が元でモレロと彼のファミリーの運命も下がり始めていった。 その後、ダクイッラのファミリーはマッセリアの盟友であるアル・ミネオと彼の用心棒のスティーブ・フェリーニョが引き継いだ。
1929年6月、シロ・テッラノーヴァは、フランキー・マーロウ殺害との関連について質問された。マーロウは殺害された日の夜、テッラノーヴァと共に食事をしていた。 同胞のシチリア人として、マーロウは新しく暗黒街のボスとなったジョー・マッセリアに対し敬意を表するか、あるいはマッセリアの要求に応じようとしなかった。 フィリップ・マーロウはニューヨーク暗黒街の重鎮であった。だが、彼は状況の変化に気づいていなかった。結果、マーロウはモレロらの力を見誤り、悲劇的な最期を遂げる事となった。 マーロウの体の銃創は、アル・カポネのシカゴ・アウトフィットらが使っているマシンガンから発射された弾丸であった。それはフランキー・イェールや聖バレンタインデーの虐殺で使用されたものと一致していた。使用された武器は後に聖バレンタインデーの虐殺に参加していたフレッド・"キラー"・バークを逮捕した折、当局の手に渡ることになった。 次に、マッセリアはイェールの組織の乗っ取りに動いた。そしてアンソニー・カーファーノをイェール・ファミリーのボスにした。 カーファーノらはイェール運営していたギャンブルと密造酒の販売を支配した。また、港湾での恐喝行為もしていたが、港湾区域はダクイッラ・ファミリーのボス、アル・ミネオが牛耳っていた。
ジョー・マッセリアは今や"ジョー・ザ・ボス”としてニューヨーク最大のマフィア・ファミリーを率いるボスとなっていた。他のシチリア系ギャング達は、それまで彼の帝国の一部には組み込まれていなかったが、氷密輸業者やブロンクスのマフィアボスのトム・レイナらは、ダクイッラとマーロウに起こった事に注意し、彼に敬意を払い始めた。 だが、それはジョー・マッセリアがニューヨーク暗黒街を全て掌握した唯一の存在というわけではない。労働組合を暴力で支配したルイス・バカルターやグラフそれとウェクシー・ゴードンやオウニー・マドゥンのような密造酒業者達らは政治的コネを作り、莫大な富を得て、強力なギャング団を組織していた。そして他に急速に勢力を拡大していたダッチ・シュルツやブロードウェイ・ギャングはマッセリアらの存在を認めようともしなかった。 当時のマフィア達のほとんどは同胞のイタリア人移民からの搾取に集中していた。
マッセリアはまず、ブロードウェイ・ギャング団の取り込みを計り、そしてギャング団のリーダー格だったチャールズ・ルチアーノに目をつけた。ルチアーノはギャング団で唯一のシチリア出身者だった。他のメンバー、フランク・コステロはカラブリア地方出身、ジョー・アドニスはナポリ近郊生まれ、アルバート・アナスタシアはカラブリア出身。ヴィト・ジェノヴェーゼはナポリ生まれ、そしてマイヤー・ランスキーとバグジー・シーゲルはユダヤ人であった。 ルチアーノは秘密結社の儀式と慣習に対しほとんど関心が無く、伝統的なマフィアに対して不満を抱いているとわかった。ルチアーノにとってそれは我慢出来ないものであった。しかし、彼の出生地は後に彼に幸運をもたらすものになった。当時、民族的に排他的な組織であったマフィア内で、シチリア人でなかった彼の仲間達と共に彼の勢力は後々拡大していくこととなった。
カステランマレーゼ戦争
マッセリアは、次の標的にカステランマレーゼと呼ばれていたマフィア・ファミリーを選んだ。カステランマレーゼのリーダー、コーラ・スチーロは見た目からもリーダーとも思われず、背後に彼を操る黒幕の存在がいることがわかった。 彼は、マッセリアに1万ドルを支払い、そしてどこかへ消えた。実際、彼のその後の行方は途絶えた。 コーラ・スチーロが行方不明となったあと、マッセリアは他のファミリーらと同じように、後釜に新しい候補を送り込もうと試みた。マッセリアは後釜としてジョー・パリッノを支持した。だが、まもなく彼はレストランで射殺された。 そして、新しいリーダーはサルヴァトーレ・マランツァーノのものとなった。マランツァーノはシチリアのドン・ヴィト・カッショ・フェロがアメリカ・マフィアでの影響力を得る為に、1927年にシチリアから送り込まれた人物のうちの1人だった。 これに対し、マッセリアはマランツァーノに対し、暗殺命令を出した。こうして、のちにカステランマレーゼ戦争と呼ばれる抗争が始まりを告げた。
1931年4月15日、コニーアイランドにあるレストラン「ヌォヴァ・ヴィラ・タマッロ」にてマッセリアは暗殺された。 裏社会の伝説によれば、死の直前、マッセリアはラッキー・ルチアーノと食事をとったあと、トランプをしている時に、ルチアーノが化粧室に行くと席を立った。 そしてマッセリアが1人席に残っている時に、ベンジャミン・シーゲル、ヴィト・ジェノヴェーゼ、そしてジョー・アドニスらがレストランに進入し、4人の殺し屋は20発ほどの銃弾をマッセリアに撃ちこんだ。マッセリアは死んだとき、トランプのスペードのエースを握っていたという。そのため、スペードのエースはマフィアの間で不吉な数字だと呼ばれるようになった。こうして、ジョー・ザ・ボスと呼ばれた男はあっけなく死んだ。