明石志賀之助
テンプレート:Infobox 力士 明石 志賀之助(あかし しがのすけ、生没年不詳)は、下野国宇都宮(現栃木県宇都宮市)出身の元大相撲力士。
江戸時代前期に実在した人物とされ、日本相撲協会が2013年現在で初代横綱に認定している。従来の力技だけでなく相撲の技に関しても多く研究し、現在でも基本とされている四十八手の技を考案した人物とも言われている。
来歴
下野国宇都宮(現栃木県宇都宮市)で、藩士・山内典膳の子として誕生する。幼名は鹿之介、身長は最盛期で八尺三寸(約251.5cm)、体重は185kgあったと伝わる。1624年に江戸・四谷塩町で初めて勧進相撲を興行したとされ、江戸勧進相撲の創始者とも言われている。その証拠となる番付が実在するとされていたが、後年になってその番付は「偽物」と否定された(番付は複数枚存在し、そのうち1枚は陣幕久五郎による創作だとされる)。
江戸以外も京・長崎を始め、諸国で相撲を取って抜群の強さを誇ったとされる。京に上ってからは仁王仁太夫を倒したことで朝廷から「日下開山」の称号を受けたとされ、これが初代横綱の根拠とされたらしい。
1900年に陣幕久五郎が発起人となり富岡八幡宮に建立された横綱力士碑に歴代横綱を列挙した際、初代横綱として明石志賀之助の四股名を刻んだ。
明石によって最初に行われたとされる、相撲に関する出来事や慣習も、全て後代の伝承や講談によるもので信憑性がかなり低く、さらには信頼できる資料では明石の実在すら確認されたことが無い。池田雅雄は「歴代横綱正伝」(ベースボール・マガジン社『相撲』1971年1月号以下)などで明石の実在を否定しており、能見正比古は『横綱物語』(講談社、1975年)で「モデルとなる『明石』なる力士が複数存在していた」という説を述べている。
脚注