ウェスパシアヌス
テンプレート:基礎情報 君主 ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス(テンプレート:Lang-la、9年11月17日 - 79年6月23日)は、ローマ帝国の皇帝。ユリウス・クラウディウス朝断絶後の四皇帝内乱の時代(68年6月 - 69年12月)に終止符を打ち、自らの血統に基づくフラウィウス朝を創始した。
家族
父はアシア属州の徴税請負人フラウィウス・サビヌス、母はウェスパシア・ポッラ。母は騎士階級(エクィテス)身分であったが、父フラウィウス・サビヌスはそうではなく、結婚によりその身分となった。2人の子としてサビニ地方のレアテで生まれた。兄は後にローマ長官となるティトゥス・フラウィウス・サビヌス。子にはローマ皇帝となるティトゥスとドミティアヌスがいる。
生涯
軍務時代
兄とともに公的社会に入る。兄サビヌスは政治の世界へ、弟ウェスパシアヌスは軍に入り、36年よりトラキアに勤務。次の年にクァエストルに当選、40年にプラエトルに当選、この頃にフラウィア・ドミティアと結婚する。41年にカリグラが暗殺されクラウディウスが帝位に就くと、ゲルマニアに異動。その後43年よりブリタンニア遠征に参加する。この遠征は成功を収めた。52年の暮れに執政官(コンスル)に補欠として当選、その後軍隊を退役し、公的生活から一端退く。
政治家として
62年に公職復帰、アフリカ属州へ前執政官(プロコンスル)として赴く。ここでの彼の統治に関して後のタキトゥスの筆は厳しく、スエトニウスは賞賛している。またこの頃のウェスパシアヌスは財政的に苦しく、兄サビヌスから経済援助を受けている。兄の援助を元に交易活動をして財務を復活させ、アフリカからローマに戻る。その後ネロ帝の随行としてギリシアへ赴く。しかし、彼はここでネロが主催したコンサートにおいてネロ自身が楽器を弾いている時に居眠りをしてしまい、寵愛を失った。
ユダヤ戦争
しかしながら66年にパレスチナで反乱(ユダヤ戦争)があると、ウェスパシアヌスはすぐに軍司令官として同地に赴く。暴動自体はシリア総督ムキアヌスによって食い止められていたが、ウェスパシアヌスは息子ティトゥスとユダヤ人の反乱勢力を鎮圧、この時フラウィウス・ヨセフスと出会う。
皇帝内乱の時代〜ローマ皇帝へ
68年にネロが帝位を追われ自殺、時代は内乱期へと突入する。ガルバ、オト、アウルス・ウィテッリウスと皇帝が濫立し相食む状態になる中、ウェスパシアヌスはムキアヌスの支持を受け、シリア属州の軍団を味方につける。そして69年、カイサリアでエジプト属州の軍の支持を、そして続いてユダヤ属州の支持を得る。
当時ウィテッリウスはガリア、ラインラントなど(ライン川防衛線)ローマ軍の中で強剛な軍団を支配下に置いていた。ユダヤの抵抗勢力と膠着状態だったウェスパシアヌスは事を急がず、まず帝国の食糧補給の要地であったエジプトを押さえる。そしてモエシア、パンノニア(ドナウ川防衛線)の支持を得て事実上ウィテッリウスに対抗できうる勢力となった。この状態で慎重なウェスパシアヌスは部下プリムスをイタリアに侵攻させる。プリムスの軍はウィテッリウスの軍を撃破、クレモナを制圧し、血気だった軍はローマへと向かう。しかしながら、この時のローマが混乱状態となり、ウェスパシアヌスの親族であった兄サビヌスは殺されてしまう。
継続していたユダヤの抵抗勢力の制圧のため息子ティトゥスを属州ユダヤに残してウェスパシアヌスは70年にローマに入り、統率を失ったウィテッリウスの軍隊を立て直す。そして元老院の協力を得て政体を回復。同時期にティトゥスはイェルサレムを陥落させ、内乱は終結、「ウェスパシアヌスによる平和」を宣言、ローマ皇帝として帝位に就いた。
即位後
系図
功績と汚点と逸話
- 初代元首アウグストゥス以来、ユリウス・クラウディウス王朝の皇帝たちに与えられていたのと同じ権限をウェスパシアヌスに付与する「ウェスパシアヌスの命令権に関する法律」を元老院に制定させた。これによって、ウェスパシアヌスもユリウス・クラウディウス王朝の諸皇帝と同じように統治できる法的基盤が整備された。
- その一方で、従来元老院に(慣習的に)与えられていた皇帝弾劾権を否定したため、権力の均衡が崩れたとされる。これによって政権交代は原則的に皇帝の死によってのみ行われるようになったため、後々まで皇帝の暗殺が横行する原因となった。軍人皇帝時代を含め、コンスタンティノープル陥落によるローマ滅亡までの皇帝の殉職率は約半数に及ぶとされる。
- ネロの命令により、66年よりユダヤ戦争を担当。70年9月、息子のティトゥスがイエルサレムを陥落させ、74年の春、フラウィウス・シルウァがマサダの要塞を陥落させたため、ユダヤ戦争を終結することができた。
- 財政の健全化のために様々な政策を実行したが、特に有名なのは74年に有料の公衆便所を設置したことである。あまりのセコさに敵対者の嘲笑を受けたが、それに対する反論のPecunia non olet(金は臭わない)は金銭に貴賎がないことを示す有名な文句となった(息子のティトゥスが反対した時に、有料公衆便所で稼いだ金貨をその鼻先にかざして「臭うか?」と訊ねたとも言われる)。また現在でもヨーロッパの公衆トイレは、ウェスパシアヌスの名前(正確にはその各国語への翻訳)で呼ばれる。なお、しばしば誤解されるが、ウェスパシアヌスの設置した公衆便所は用を足した利用者から料金を徴収するのではなく、集めた尿を有料で販売したのである(当時、羊毛から油分を洗い流すために、人間の尿が使われていた)。つまり、ただで集めた尿を、国家が有料で販売するという行為が、嘲笑を招いたのである。
- 75年に、コロッセウム(現コロッセオ)の建設を開始した。
- 病気になり死を覚悟した時「かわいそうな俺、神になるんだろうな...」とつぶやいたと言われる。当時のローマ皇帝は死後に神格化がなされたからである。そして最期に「控えおろう! これから予は神になるぞ!」と叫んで、立ったまま死んだと伝えられる。本気で神になると信じていた訳ではなく、彼の最後のユーモアであった。
- 財政健全化に勤めたことは、死後も吝嗇として揶揄の対象になった。棺桶の中のウェスパシアヌスの遺体が起き上がって、自分の葬儀の費用を聞いて驚き、そんなことに金を使わず自分の遺体は河に捨てればよいと言ったという内容の喜劇が、上演されたことがある。その皇帝を侮辱する内容の喜劇に対して、当時の皇帝のティトゥスは一切咎め立てをせず、これはティトゥスの慈悲深さを示す逸話としても知られる。