ガルバ
セルウィウス・スルピキウス・ガルバ(Servius Sulpicius Galba, 紀元前3年12月24日 - 69年1月15日)はローマ帝国の皇帝である。在位は68年から死亡した69年まで。「四皇帝の年」の最初の皇帝である。
出自
富裕な家系の出であったが、カエサル家との親戚関係や婚戚関係にはなかった。早くから頭角を現し、アウグストゥスとティベリウスの双方から、将来の大成を予言された。
皇帝就任
ガルバは順調に出世し、68年にユリウス・クラウディウス朝最後の皇帝ネロへのウィンデクスのクーデターが起こった時は、ヒスパーニア・タラコネンシス(現スペイン東部)の総督であった。
混乱の中で皇帝宣言をしたガルバだったが、ウィンデクスの反乱は直後ウェルギニウス・ルフスによって鎮圧された。それでもウェルギニウス・ルフスが自ら積極的な行動を起こさないのを見ると、ガルバは軍団と共に首都を目指し、10月にローマに入城した。ガルバがローマへ向かうとの報に対して元老院はネロを捨て、ガルバを新たな皇帝として認めていた。国賊とされたネロはガルバがローマに入る前に自ら命を絶っている。
帝位についたガルバはネロの放蕩によって破綻していた帝国の財政の再建を図った。皇帝は即位に際して軍隊の好意を獲得するため金貨を配る風習があったが、ガルバはこれを軽蔑して行わなかった。またガルバはすでに60を過ぎた老齢であり、活気を欠くところがあった。また彼は支持者に囲まれており、ために期待を裏切られた民衆や軍隊の支持を得ることができず、その治世を縮める原因となった。
69年1月1日、上ゲルマニア属州の2軍団が皇帝への忠誠宣誓を拒み、新しい皇帝の擁立を要求した。翌日下ゲルマニアでも反乱がおき、駐在していた軍隊は当時の下ゲルマニア総督ウィテリウスをガルバにかわり皇帝に擁立するよう要求した。この反乱の勃発はガルバに自らの支持基盤の脆さを自覚させた。ガルバは人格者として知られたピソを養子にし、自らの後継者として公表した。この選択はそれ自体としては賢明で慎重なものであったが、民衆や軍隊の支持を得なかった。
最期
ガルバのかつての支持者であり、ルシタニア(イベリア半島西部)総督であったオトは、ガルバの後継者となることを期待していた。期待を裏切られたオトは、同じくガルバに不満を持つ親衛隊員と計らい、ラクス・クルティウスの辺にガルバとピソの父子を殺害し、帝位についた。
評価
ガルバはその晩年精彩を欠いたが、その目立たなさが、ガルバをネロ治世下でも目立ずに生きながらえさせたといえる。
タキトゥスはその『年代記』にて、「もしガルバが皇帝にならなければ、万人はガルバが皇帝に値すると述べたであろう」と評している。