アウルス・ウィテッリウス
アウルス・ウィテッリウス・ゲルマニクス(Aulus Vitellius Germanicus, 15年9月7日(または24日) - 69年12月20日)は、ローマ帝国の皇帝である(在位:69年1月2日 - 12月20日)。「四皇帝の年」における3番目の皇帝で在位期間は約1年。ウィテリウスとも。
出自
ウィテッリウスは3度(37年、43年、47年)執政官に就いたルキウス・ウィテッリウス(en)の長男として生まれ、弟に父と同名のルキウス・ウィテッリウス(en)がいた。出生日は9月7日あるいは9月24日と言われる。カリグラ・クラウディウス・ネロの好意を得て、順調に出世する。執政官や元老院管轄のアフリカ属州の総督などの役職に就いた。68年、ガルバが政権を取ると低地ゲルマニア軍団司令官として派遣される。ガルバは自分に反感を抱いていたゲルマニア軍団の行動を抑制するために無能と考えられていたウィテッリウスを遣わしたと言われている。
皇帝就任
ゲルマニア軍団はガリア・ルグドゥネンシス属州総督ガイウス・ユリウス・ウィンデクスによる反乱を鎮圧したが、ガルバはウィンデクスに呼応して皇帝になったので、両者の関係は悪化した。さらにガルバは皇帝就任時の慣例となっていた賜金の支給を行わなかったので、軍団の不満はさらに大きくなっていた。そんなとき、高貴な生まれで知られるウィテッリウスが遣わされたのである。69年1月1日には、高地ゲルマニア軍団がガルバ帝への忠誠を拒否、翌日、低地ゲルマニア軍団も同調、ウィテッリウスは皇帝に擁立された。ガリアなどの軍団の支持も得て、反乱軍はローマへ向って進攻、ガルバが暗殺されたあと皇帝となったオトの軍と、4月14日、クレモナの戦いで勝利を収める。オトーは自害し、元老院はウィテッリウスの帝位を承認する。ウィテッリウスはゲルマニクスの添名は付けたが、カエサルの称号は入れなかった。
最期
69年秋、ウィテッリウス軍は、ウェスパシアヌス側に付いたマルクス・アントニウス・プリムス率いるモエシア・パンノニア方面(ドナウ川南岸部属州)軍とのベドリアクムの戦いで敗戦を喫した。ウェスパシアヌス軍はローマに向けて進軍する。状況を打破しようとして帝位の返上も考えたが、部下たちから反対された。12月、ローマ市はウェスパシアヌス軍の手に落ち、ウィテッリウスはパラティヌスに逃げ込むが、捕らえられて無残な最期を遂げる。処刑場として用いられていたゲモニアエの階段(Scalae Gemoniae)に突き落とされたとも、斬首されてローマ市街を引き回されたとも伝えられている。
人物像
- タキトゥスはウィテッリウスを「気前の良い人」と評価している。しかし皇帝にふさわしい能力や統率力は持っていなかった。ローマへの進軍中に兵たちは好きなように略奪を行い、不評を買った。また敵とはいえ同じローマ人であるオト軍を侮辱するなど時折軽率な言動をした。
- スエトニウスもタキトゥスもウィテッリウスが大食漢であったことを伝えている。宴会を頻繁に催し、ある時には一食分の宴会の費用が10万デナリウスかかったと言われている。