オリバー・カーン

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オリバー・カーンOliver Kahn, 1969年6月15日 - )は、ドイツカールスルーエ出身の元サッカー選手。ポジションはゴールキーパー

ドイツサッカー界でも最も多くのタイトルを獲得した選手の一人であり、同時にドイツ社会で発言力を持つサッカー選手の一人である。ゼップ・マイヤーハラルト・シューマッハーらと共にドイツサッカー史に残るGKの一人であり、欧州サッカー連盟が選ぶ歴代欧州サッカー選手ベスト50の中に、当時現役のゴールキーパーでは唯一選出された。

経歴

祖父母はラトビア出身。父もそこで生まれ、第二次世界大戦後にドイツへ来た[1]

16歳の時にはクラブチームの入団試験にことごとく落ちる。カールスルーエに入団するまでは筋力トレーニングなど雌伏の時期を過ごした。カールスルーエでは数年かかって正GKの座を確保した。

ブンデスリーガUEFAカップでの活躍が認められ、1994年、名門バイエルン・ミュンヘンへ移籍。初年度は味方ディフェンダーのクフォーと衝突し膝の十字靱帯を切断、シーズンを棒に振るが、翌年からは期待通りの活躍を見せた。コンスタントにレベルの高いパフォーマンスを見せ、バイエルン・ミュンヘンのGKコーチ、ゼップ・マイヤーの下でワールドクラスのGKに成長した。

1998-99シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝は、大会史上に残る名勝負となるが、終了直前の3分間に2失点を喫し、マンチェスター・ユナイテッドに敗れた。1999-00シーズン以降、4年連続で欧州最優秀ゴールキーパーに選出されている。またドイツサッカー雑誌「キッカー」の選手ランキングでも幾度も「ワールドクラス」の評価を得ており、1999年から2003年頃までドイツの各テレビや雑誌では世界ナンバーワンGKと紹介された。

2000-01シーズンには自らの活躍により、バイエルンをUEFAチャンピオンズリーグ優勝に導き、2年前の雪辱を果たした。2002 FIFAワールドカップ後は、私生活の問題もあってコンディションを落とし、あまり良いプレーができなかったが、2004-05シーズンには完全復活を印象付けた。

2001年3月3日に行われたハンザ・ロストックバイエルン・ミュンヘンの試合において、シュテファン・エッフェンベルクが上げたコーナーキックを、ハンドでゴールを決めて、2枚目のイエローカードを貰って退場している[2]

バイエルン・ミュンヘンとの契約が切れた2008年限りで現役を引退。2008年9月2日、ミュンヘンで引退記念試合が行われ、21年間の現役生活に終止符を打った。

ドイツでの彼の人気を物語るものとして、彼をモチーフにした曲「OLLI KAHN(オリ カーン)」がある。旧・東ドイツの都市・ライプツィヒ出身の音楽グループのディー・プリンツェン (die Prinzen) によるこの曲は2002 FIFAワールドカップの頃に発売された。

ドイツ代表

ドイツ代表では、FIFAワールドカップを4回経験している。しかし、1994年大会にはボド・イルクナー1998年大会にはアンドレアス・ケプケと、共に世界レベルのゴールキーパーの存在が大きくサブに甘んじ、正キーパーとして出場できたのは2002年大会のみである。2006年大会では、守備範囲が広くハイボールに強いイェンス・レーマンとの正ゴールキーパーのポジション争いに敗れ、サブGKとして参加。3位決定戦のみの出場となった。

代表のレギュラーとして初めて国際大会に出場したのはUEFA欧州選手権2000。しかし、この大会では実力を発揮することができず、ドイツはグループリーグで敗退した。

2002 FIFAワールドカップにはキャプテンとして参加した。ドイツは2001年9月1日にミュンヘンで行われた日韓ワールドカップ予選、イングランド戦でマイケル・オーウェンのハットトリックなど5失点を喫し1-5で完敗するなど、苦戦の末の本大会出場ということもあって下馬評は高くなかった。しかし、ワールドカップ本選ではカーンはファインセーブを連発し、準優勝の好成績を収めた。自身は決勝戦においてブラジル代表のジウベルト・シウバとの接触プレーにより靭帯損傷の大怪我を負うが、そのままプレーを続行する気迫を見せた。ワールドカップでゴールキーパーとして初のMVPを獲得した。また、この年に自身3度目となる世界最優秀ゴールキーパー賞を受賞した。

カーンにとって実質3度目の国際大会となるUEFA欧州選手権2004では、実力を発揮したものの、ドイツは2大会連続のグループリーグ敗退となった。

EURO2004後に就任したユルゲン・クリンスマン監督の方針により、代表GKはローテーション制となり、ドイツワールドカップに向け長年のライバルであったイェンス・レーマンVfBシュトゥットガルト)と正GKの座を争う形となったが、2006年4月7日、クリンスマン監督から正式にレーマンが正GKであると発表があった。これにより「正GKとしてワールドカップに出場できないのなら代表を引退する」と以前から公言していたカーンであったが、「冷静に考えてから答えを出す」とコメントし熟慮の末、代表に参加した。

代表の主将の座は当時バイエルンのチームメイトであったミヒャエル・バラックに譲っている。

実質最後のワールドカップといわれた地元開催の2006 FIFAワールドカップでは、正GKとなったレーマンの控えとなったが「たとえ試合に出られなくても貢献できることはある」と自身でコメントしたように、延長戦ではレーマンを含めた他のチームメイトを励ますなど必死にチームを盛り上げる姿を見せ、ドイツ国内のみならず世界中で大きな感動を呼んだ。そして2006年7月8日(日本時間9日)に行われた3位決定戦では先発出場。ケガのため欠場したバラックに代わって主将を務めると共に、好セーブを連発してチームの勝利に大きく貢献した。この試合終了後、代表引退を正式に表明し、有終の美を飾った。

2006 FIFAワールドカップでは、ミュンヘン高速道路に横っ飛びしてキャッチしているカーンの巨大アーチ看板が作られた。これはミュンヘン空港からスタジアムに向かう道をまたいでおり、観戦客はカーンの体の下を通過してスタジアムに向かうこととなった。

個人成績

年度 クラブ リーグ リーグ カップ 欧州カップ 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
1987-88 カールスルーエ ブンデスリーガ 2 0 0 0 - 2 0
1988-89 2 0 0 0 - 2 0
1989-90 0 0 0 0 - 0 0
1990-91 22 0 0 0 - 22 0
1991-92 37 0 2 0 - 39 0
1992-93 34 0 5 0 - 39 0
1993-94 31 0 3 0 10 0 44 0
1994-95 バイエルン・ミュンヘン 23 0 2注1 0 5 0 30 0
1995-96 32 0 2 0 12 0 46 0
1996-97 32 0 4 0 2 0 38 0
1997-98 34 0 8 0 8 0 50 0
1998-99 30 0 8 0 13 0 51 0
1999-00 27 0 5 0 13 0 45 0
2000-01 32 0 4 0 16 0 52 0
2001-02 32 0 5 0 14 0 51 0
2002-03 33 0 6 0 6 0 45 0
2003-04 33 0 5 0 8 0 46 0
2004-05 32 0 7 0 10 0 49 0
2005-06 31 0 6 0 7 0 44 0
2006-07 32 0 3 0 9 0 44 0
2007-08 26 0 7 0 9 0 42 0
通算 ドイツ 557 0 82 0 142 0 781 0

注1 DFLスーパーカップの記録を含む。

獲得タイトル

  • UEFA欧州選手権1996
  • トヨタカップ 2001
  • UEFAチャンピオンズリーグ 2000-01
  • UEFAカップ 1995-96
  • ブンデスリーガ 8回(1996-97, 1998-99, 1999-2000, 2000-01, 2002-03, 2004-05, 2005-06, 2007-08)
  • ドイツカップ 6回(1997-98, 1999-2000, 2002-03, 2004-05, 2005-06, 2007-08)
  • ドイツリーグカップ 6回(1997, 1998, 1999, 2000, 2004, 2007)

個人タイトル

著書

  • 「オリバー・カーン自伝 ナンバーワン」("Nummer Eins" 斎藤孝監訳、三笠書房)ISBN 978-4837956518

脚注

  1. カーンに流れるラトビアの血
  2. トリビアの泉 - ドイツ代表のキーパー、オリバーは手でシュートを決め退場になったことがある。2014-05-19閲覧

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