片山潜
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片山 潜(かたやま せん、安政6年12月3日(1859年12月26日) - 昭和8年(1933年)11月5日)は、日本の労働運動家・社会主義者・マルクス主義者・思想家・社会事業家。号は深甫。
生涯
美作国久米南条郡羽出木村(後の弓削町、現在の岡山県久米郡久米南町羽出木)に庄屋藪木家の次男として生まれる。幼名は菅太郎(すがたろう)。
明治10年(1877年)10月、神目村(現在の久米南町神目中)の親戚・片山幾太郎の養子となる。この養子縁組は兵役忌避が目的だったと言われている。明治13年(1880年)に岡山師範学校(現在の岡山大学教育学部)に入学するが、翌14年(1881年)に退学して上京。攻玉社にて塾僕として勤務し、明治17年(1884年)、友人岩崎清七の勧めに応じてアメリカ合衆国へ渡り、皿洗いなどをしながら苦学してメリーヴィル・グリンネル・エール大学や大学院に通う。苦心の末、プラトンやソフォクレスなどの原典を通じて、西洋古典学を修め[1]、学位を取得して明治29年(1896年)、帰国した。
帰国後は牧師か伝道師を志望したが叶わず、イギリスを源流とするアメリカのセツルメント運動に共感。宣教師ダニエル・クロスビー・グリーンの支援を受け、友人である高野房太郎とともに神田区三崎町の自宅を改良し、キリスト教社会事業の拠点として明治30年(1897年)、日本人最初の隣保館である「キングスレー館」を設立した。
キングスレー館の運営の傍らで片山は労働運動に力を尽くし、明治30年12月『労働世界』を創刊し主筆を務め、日本で最初の労働組合である職工義友会(労働組合期成会)の設立に大きな役割を果たす。明治30年4月に中村太八郎の社会問題研究会(後の社会主義研究会)結成に加わり、明治34年(1901年)に社会主義研究会を改組した日本で最初の社会主義政党である社会民主党に幸徳秋水らとともに入党した。
また明治36年(1903年)12月に再度渡米し、翌37年(1904年)、第二インターナショナルの第五回大会で安部磯雄とともに本部員に選ばていた片山はアムステルダムで開催した万国社会党の第六回大会に出席。折しも日露戦争の最中にあって、ロシア代表のプレハーノフとともに労働者の反戦を訴えた。
明治39年(1906年)、日本社会党結党に参加。しかし、片山と安部らは議会政策論を説き[2]、直接行動論を採る幸徳秋水らと対立し袂を分けた。明治44年(1911年)、東京市電ストライキの指導を行ったとして逮捕され投獄された。大正元年(1912年)9月、大正天皇即位の大赦によって出獄。その後、大正3年(1914年)にアメリカへ亡命し、大正6年(1917年)のロシア革命により、マルクス・レーニン主義に傾倒。アメリカ共産党、メキシコ共産党の結党に尽力するなど北米での共産主義活動を行った。
大正10年(1921年)、ソビエト連邦に渡り、コミンテルン常任執行委員会幹部となる。国外にあって日本共産党結党の指導を行い、また国際反帝同盟を指導し反戦運動に従事した。
昭和8年(1933年)11月5日にモスクワで死去。9日に行われた葬儀には15万人のソビエト市民やコミンテルン指導者らが集まった。棺に付き添った14人には、ミハイル・カリーニン、ヨシフ・スターリン、ヴィルヘルム・ピーク、クン・ベーラ、野坂参三たちがいた。遺骨はクレムリン宮殿の壁に他の倒れた同志たちと共に埋葬されている。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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テンプレート:Asbox- ↑ テンプレート:Cite journal
- ↑ 東京朝日新聞1933年11月7日付