大阪市立市岡商業高等学校

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大阪市立市岡商業高等学校(おおさかしりつ いちおかしょうぎょう こうとうがっこう)は大阪府大阪市港区に所在した市立商業高等学校

概要

商業科と情報会計科の2学科を設置していた商業高等学校であった。通称は「市商(いちしょう)」。

大阪市で2番目の市立商業学校として1919年に創立した。旧制学校時代は港区の別の場所に校舎があった。しかし大阪大空襲により校舎を全焼し、仮校舎の時代を経て1956年以降弁天1丁目に校舎を構えている。

大阪市立天王寺商業高等学校大阪市立東商業高等学校と統合し、2012年大阪市立大阪ビジネスフロンティア高等学校を設置することが決定している。

沿革

大阪市会は1918年3月23日、大阪市立第二商業学校の設置を議決した。準備期間を経て1919年4月より開校し、同年4月25日北区玉江町2丁目(現在の北区中之島5丁目)・大阪市立実業学校[1]を仮校舎として授業を開始した。5年制で男子のみの募集だった。

1920年4月には西区市岡705番地(現在の港区磯路3丁目26番・27番付近)に校舎が竣工し移転している。1920年6月1日付で大阪市立市岡商業学校と改称した。

1934年9月21日室戸台風では校舎が床上浸水する被害を受けたが、校内にいた教職員・生徒への人的被害はなかった。

太平洋戦争に伴い、1944年には戦時措置として工業学校へ転換している。また1944年6月1日より勤労動員が実施され、4・5年の全生徒が日立造船築港工場に動員されている。

1945年3月13日大阪大空襲では、校舎が全焼する被害を受けた。被災直後より港区・東田中国民学校[2]に仮校舎を設置した。仮校舎は1945年9月1日に西区・九条東国民学校(現在の大阪市立九条東小学校)に移転したのち、1945年12月1日にはさらに東区・北大江国民学校[3]に移転している。

1946年には商業学校に復帰し、同年4月1日より西区・明治国民学校(当時休校中。現在の大阪市立明治小学校)に仮校舎を移転している。

1948年学制改革により大阪市立市岡商業高等学校が発足した。女子学校との生徒交流や合併などの措置をとらず、入学試験で男女生徒を募集することで男女共学化を図った。実際に女子生徒が入学したのは、2年後の1950年となった。

1951年には、戦災被害のため当時休校中だった港区・大阪市立南市岡小学校の校舎に移転することになった。さらに現在地に校舎を建設することになり、1956年には現在地に部分移転している。

1958年5月には現在地に本校機能を移転し、南市岡小学校の校舎を引き続き分校として一部使用していた。南市岡小学校は1958年4月に再開したため、校舎を共用する形になっていた。1959年3月には南市岡小学校内の分校を廃止し、現在地に完全移転している。

大阪市教育委員会は2004年、大学や産業界と連携して、高度な専門性を持つ商業人の育成や、高校・大学の7年間を見据えた商業教育などをおこなう新しいタイプの市立商業高等学校を、既存校の統廃合で設置する構想を発表した。2004年時点では具体的な統廃合対象校の名前は挙げられていなかったが、大阪市教育委員会は2007年6月になり、統廃合対象校と新商業高校(仮称)の開校計画時期を発表した。発表によると、新商業高校は既存の大阪市立天王寺商業高等学校・大阪市立市岡商業高等学校・大阪市立東商業高等学校の3校を統合して、従来の天王寺商業高等学校の場所(天王寺区烏ヶ辻)に2012年4月に開校するとしている。

これに伴い在校生も2012年4月より新商業高等学校(2011年「大阪市立大阪ビジネスフロンティア高等学校」に校名決定)内の校舎に移転し、新商業高校・市岡商業高等学校・東商業高等学校・天王寺商業高等学校の4校が新商業高等学校の校舎を共用することが発表されている。

年表

出身者

参考文献

脚注

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関連項目

外部リンク

  • 1940年大阪市立酉島工業学校(廃校)と大阪市立第七商業学校(のち大阪市立淀商業高等学校)に分離。酉島工業学校は太平洋戦争の戦災被害により都島工業(電気系学科)・泉尾工業(工業化学系学科)の両工業学校に分割合併された。
  • 現在の港区田中1丁目・石田公園付近。戦災で廃校。
  • 現在の中央区釣鐘町・大阪市立中央高等学校の場所。戦災で廃校。