ヘンリー・ペラム
ヘンリー・ペラム(Henry Pelham, 1694年9月25日 - 1754年3月6日)は、イギリスのホイッグ党の政治家である。1743年8月27日から首相であり、1754年に現職のまま死亡した。同じく首相のニューカッスル公トマス・ペラム=ホールズは兄。
サセックス州ロートンでペラム・オブ・ロートン男爵トマス・ペラムとクレア伯爵ギルバート・ホールズの娘グレース・ホールズとの間に生まれた。1710年からオクスフォード大学クライストチャーチ・カレッジで学び、1715年のジャコバイト蜂起の際には志願兵としてイングランド北西部プレストンの戦いに参加した。1717年からサセックス州シーフォード選出の下院議員となり、いくつかの役職をへて1730年から陸軍支払長官(Paymaster of the Forces)に就任した。首相であったロバート・ウォルポールの閣僚として兄のトマスと協力し、下院内で強い支持を得ていたが、国王ジョージ2世には信任されていなかった[1]。
1743年に首相に就いた時も国王の承認は得られず、ジョージ2世はスペンサー・コンプトンの頃から実質的に政権を握っていたジョン・カートレットをもっぱら支持していた。下院の後ろ盾を得ているペラムはジョージ2世にカートレットの更迭を迫り、約1年にわたる綱引きの末、ついにジョージ2世を屈服させカートレットを排斥した。1745年から1746年に起こったジャコバイトの反乱も鎮圧、イギリスを安定に導いた。
ペラムの政治手法は、キャンペーンを張って政敵を駆逐したウォルポールに対して、野党勢力にも一定の官職を配分し、下院に広い支持をとりつけたという点で異なっている。強力な政敵の不在によって、ペラムは死に至るまで第一大蔵卿の地位を守ることができた。しかし一方で、戦争を極力回避し、国庫の安定と減税をめざすという路線はウォルポールと軌を一にしていた。ペラムの行った政策等で代表的なものを以下に列記する[2]。
- オーストリア継承戦争の終結(1748年)。これによって一時的にではあるが軍事費の圧縮が可能になり、ひいては減税を実現できた。
- 「ジン法(Gin Act)」の制定(1751年)。イギリスの下層庶民は当時ジンに溺れる悲惨な生活をしており[3]、これによってジンの消費を抑え、風紀の粛正にいくぶんかは貢献した。
- 「ハードウィック結婚法(Lord Hardwicke’s Marriage Act)」の制定(1753年)。婚姻制度や手続きを整備・徹底したものであるが、これによって上流階級と庶民の結婚や未成年者の秘密結婚が難しくなり、貴族階級は閉鎖的になった。しかし18世紀イギリスの議院内閣制は事実上ジェントルマンと貴族による寡頭政治であって、この体制を安定させるには有益な施策であった。
子女
1726年、ラトランド公ジョン・マナーズの娘キャサリンと結婚、4人の子を儲けた。
- キャサリン(1727年 - 1760年) - 従兄弟に当たるニューカッスル公ヘンリー・ペラム=クリントンと結婚
- フランセス(1728年 - 1824年)
- グレース(1735年 - 1777年) - ソンデス男爵ルイス・ワトソンと結婚
- メアリー(1739年 - ?)
脚注
- ↑ 今井、P291。
- ↑ 今井、P304 - P311。
- ↑ 当時の庶民の悲惨な生活ぶりは、風刺画家ウィリアム・ホガースらが描いている。今井、P309。
参考文献
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