ジョアン5世 (ポルトガル王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2013年5月22日 (水) 17:34時点におけるY.kansuke (トーク)による版 (参考文献)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

ジョアン5世ポルトガル語João V, 1689年10月22日 - 1750年7月31日)は、ポルトガルブラガンサ朝国王(在位:1706年 - 1750年)。全名はJoão Francisco António José Bento Bernardo de Bragançaで、「寛大王」(o Magnânimo)と呼ばれる。ペドロ2世と王妃マリア・ソフィアの息子。

生涯

1689年にリスボンで生まれた。1706年12月、父王ペドロ2世の死去を受けて王位を嗣ぎ、翌1707年1月1日に即位を宣言した。

スペイン継承戦争では父が1703年に参加していたアウクスブルク同盟(大同盟)への支持を継続、配下のミナス侯アントニオ・ルイス・デ・ソウサテンプレート:Enlinkイギリスのゴールウェイ伯ヘンリー・デ・マシューと共にスペインへ進軍したが、1707年4月25日アルマンサの戦いでスペイン・フランス連合軍に敗れた。

1708年10月、オーストリアとの同盟を強化するため、神聖ローマ皇帝レオポルト1世の皇女で母方の従姉にあたるマリア・アナ(1683年 - 1754年)と結婚した。このためスペイン継承戦争ではフランスと戦った。1713年ユトレヒト条約でスペインからラプラタ川左岸の土地コロニア・デル・サクラメント(現在のウルグアイ)とアマゾン川両岸を獲得、植民地ブラジルを僅かながら拡大した。

ジョアン5世は、ブラジルから産出される金と1727年から新たに発見されたダイヤモンドなどの富を背景に絶対王政を敷いて、顧問会議を開かない代わりに側近政治を行い、外交では1717年教皇クレメンス11世の呼びかけに応じて対オスマン帝国戦争に参戦、見返りにリスボンに総大司教座を創設して宗教権威を身につけ、1748年に教皇ベネディクトゥス14世の教書によって「いと敬虔なる王」という称号を授けられるほど聖職者寄りの統治を行なった。また、バロック建築を奨励してマフラ国立宮殿を建造、1731年からリスボンにローマ式水道の建設を開始(完成は1799年)、コインブラ大学の図書館も建てた。最晩年の1750年にスペインとマドリード条約を締結、サクラメント返還の代わりにブラジルをほぼ現在の領域に拡大して繁栄を迎えた。

1742年にジョアン5世を襲った発作は麻痺を残し、公務に支障を来たすようになった。1750年、60歳でリスボンで死去し、王位は息子のジョゼ1世が嗣いだ。

1721年に、15世紀から16世紀にかけての大航海時代に、諸民族がポルトガルに残した歴史記念物の保護を定めた詔勅を発布している。

子供

王妃マリア・アナ・デ・アウストリアとの間の子供:

参考文献

テンプレート:ポルトガル王