ヴァルター・シェール
ヴァルター・シェール Walter Scheel | |||
ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1989-047-20, Walter Scheel.jpg |
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任期 | 1974年7月1日 – 1979年6月30日 | ||
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出生 | 1919年7月8日 テンプレート:GER、ゾーリンゲン | ||
政党 | 自由民主党 | 配偶者 | ミルドレート・シェール(大統領在任時) |
ヴァルター・シェール(Walter Scheel , 1919年7月8日 - )は、ドイツ(西ドイツ)の政治家。第4代連邦大統領(在任 1974年 - 1979年)。そのほか経済協力相(1961‐1966年)、副首相兼外相(1969‐1974)を歴任。1968年から1974年までは所属する自由民主党(FDP)の党首も務め、「大連立」政権樹立や戦後初のドイツ社会民主党(SPD)政権樹立といった政界再編の影の主役でもあった。
経歴
青年期・FDP入党
ノルトライン=ヴェストファーレン州ゾーリンゲンの生まれ。父親は車輪作りの職人、家庭はプロテスタント。1938年アビトゥーアに合格し銀行で修業を始めるが、翌年徴兵されドイツ空軍に入る。1945年まで第二次世界大戦に従軍し、最終階級は中尉。戦争中の1942年に結婚し一児をもうけている。この間シェールがナチスに入党していたか否かは議論があり、戦争末期に入党したとも入党していなかったともいうが、証拠となる記録が残っていない(シェール本人は入党を否定し続けつつも、大統領任期切れの直前に「入党志願書が届いていた」事を認めたが、結局入党した否かについて明言を避けている)。戦後は政治活動の傍ら1953年まで企業の経理係などをしていた。
1946年、自由民主党(FDP)に入党。1948年に故郷ゾーリンゲン市の市議会議員に初当選。1950年にはノルトライン=ヴェストファーレン州議会議員に転じ、さらに1953年にはドイツ連邦議会議員に初当選。大統領となるため辞職した1974年まで連邦議会議員に連続当選する。1954年に州の党執行部に入り、1956年からは連邦の党執行部に入る。この年、ノルトライン=ヴェストファーレン州政府ではキャスティング・ボートを握るFDPが連立相手をドイツキリスト教民主同盟(CDU)からドイツ社会民主党(SPD)に替えたために政権交代が起きたが、シェールはいわゆる「青年トルコ党」と呼ばれた党若手グループの一員としてこれに関与した。これに反対するグループが離党して自由国民党(FVP)を結党する騒ぎにもなった。同年欧州議会議員を兼任(1961年まで)、海外協力問題委員会委員長などを務める。
キャスティング・ボート
1961年の連邦議会選挙で成立した第四次アデナウアー内閣に連邦政府の経済協力相として初入閣。しかし翌年起きた「シュピーゲル事件」でアデナウアーに抗議して、他のFDP閣僚と共に辞任した。問題視されたフランツ・ヨーゼフ・シュトラウス国防相をアデナウアーが更迭したため、12月に内閣に復帰した。アデナウアーに代わるエアハルト内閣でも引き続き入閣していたが、1963年に予算案をめぐりCDUとFDPが対立すると、他のFDP閣僚と共に辞職、エアハルト政権を崩壊させた。窮したCDUはSPDと大連立を組み、FDPは野党になった。1967年から連邦議会副議長(1969年まで)。1968年にFDP党首に就任。翌年自由主義インターナショナル副議長になった。
1969年の連邦議会選挙でSPDが躍進すると、SPDとFDPが協議して連立が成立、戦後初めてCDUを野党に引きずり下ろした。故郷の州に続き連邦政府でもキャスティング・ボートを握ることになったシェールは、ヴィリー・ブラント内閣の副首相兼外務大臣に就任する。1970年にはドイツ外相として初めて、1965年に外交関係を樹立したばかりのイスラエルを訪問。ノーベル平和賞を受賞したブラント首相による「東方外交」の現場責任者として、シェールは彼と共に「デタントの父」と呼ばれた。1972年には東ドイツと国交を樹立している。この政策はCDUに激しく攻撃され、シェールも防戦に努めたが離党者が相次ぎ、ブラントが1972年に連邦議会選挙の賭けにうって出て政権はようやく安定を取り戻した。しかし「ギヨーム事件」の責任をとって1974年5月7日にブラントが突如辞任すると、法に定められた大統領の依頼により、次の首相が決まるまで首相職を代行した。
大統領
奇遇なことに同時期、大統領選挙が行われていた。SPD・FDPは共同の候補としてシェールを立て、対するCDUはリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーを立てていた。5月15日に行われた投票で、予測通りシェールが選出された。翌日、連邦議会でヘルムート・シュミット(SPD)がブラントの後任の首相として選出された。これと同時にシェールは閣僚(副首相兼外相)及び連邦議会議員、FDP党首の職を辞し、7月1日に宣誓式を行って大統領に就任した。シェールは二日間、一身で首相代行と次期大統領を兼ねていたことになり、これは他に例のない事態であった。
大統領として外遊9回・13ヶ国を訪問し、1978年4月には日本を訪問している。1976年には兵役忌避者に対する思想審査を廃止する法案への署名を、連邦参議院の可決が必要であるとして拒否したこともある。1979年の大統領選挙には、CDUが議会第一党になっており再選の見込みがなかったため出馬せず、一期で大統領職を終えた。大統領経験者が退任後に定職に就くことは禁じられているため、彼はそのまま年金生活者になっている。退任と同時にFDP名誉党首。1980年から1985年のビルダーバーグ会議議長など、数多くの名誉職を経験している。名誉博士号多数、ドイツ連邦共和国功労勲章特等大十字章受章。
家族・人柄
最初に結婚した妻エファと一男をもうけるが、結婚24年目の1966年に彼女は病死した。1969年にミルトレート夫人と再婚し一女をもうける。そのほか夫妻には夫人の娘と、ボリビアから養子に迎えた男児がいる。ドイツがん患者支援協会を設立した医師でもあった彼女は、1985年に死去した。1988年にスイスでリハビリ科と精神科の医院を開業していた医師バルバラ夫人と結婚。2001年から夫妻はベルリンに住んでいる。
シェールはドイツ民謡を歌うのが得意で、在任中にレコード("Hoch auf dem gelben Wagen")を出した《歌う大統領》としても有名。この曲は1974年のドイツのヒットチャート5位にまでなった。2006年にも出演したテレビ番組で歌声を披露した。
外部リンク
- 大統領府ホームページ(独語、英語、仏語、西語)
- ドイツ歴史博物館による経歴紹介(ドイツ語)
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