ローラ・インガルス・ワイルダー
ローラ・インガルス・ワイルダー(Laura Ingalls Wilder, 1867年2月7日 - 1957年2月10日)はアメリカ合衆国の作家・小学校教師。彼女はその幼年期の体験に基づいた子どものための家族史小説シリーズを著した。最も有名な作品『インガルス一家の物語』は、NBCで『大草原の小さな家』としてテレビシリーズ化され、日本でも二度にわたってNHK総合テレビにて放映された。
生い立ちと結婚
ローラ・エリザベス・インガルスはウィスコンシン州ペピン(Pepin)の近くで、チャールズ・フィリップ・インガルス(Charles Philip Ingalls)とキャロライン・レイク・インガルス(Caroline Lake Ingalls)夫妻の間に生まれた。彼女は夫妻の5人の子どもの二番目であった。一家の生活の様子は彼女の半自叙伝的小説である『大草原の小さな家』の中に時代順に記された。彼女の幼年期に一家は中西部を頻繁に移動した。彼女は聡明な子供であったが、受けた教育は散発的なものであった。それは一家がしばしば学校も無い隔絶した地域で生活したことや、一家の金銭的な問題が彼女の教育を中断させたりしたためである。1879年、一家は最終的にダコタ準州のデ・スメット(De Smet:現在はサウスダコタ州)に定住した。彼女は同地で規則的に学校に通い、小学校の教師となり、1885年8月25日に10歳年上のアルマンゾ・ジェームズ・ワイルダー(Almanzo James Wilder:1857 - 1949)と結婚した。彼女は二人の子供をもうけた。一人は小説家、ジャーナリストおよび政治理論家のローズ・ワイルダー・レーン(Rose Wilder Lane:1886年12月5日 - 1968年10月30日)、もう一人は1889年に誕生後すぐに死亡した息子であった。
1888年春にアルマンゾはジフテリアの感染症に罹患し、脚が部分的に麻痺するようになった。最終的に脚の機能は回復したが、彼は余生を杖を用いて過ごさなければならなかった。アルマンゾの病気は一家の一連の災難の始まりであった。生まれたばかりの息子の死(1889年秋)、火災による住居の喪失(1889年秋)、数年間続いた旱魃による負債は彼らに1.3 km²(320エーカー)の土地を手放させることとなった。
1890年、ワイルダー一家はサウスダコタを去りアルマンゾの両親が成功したミネソタの農場に約一年間滞在し、続いてフロリダへ移り住んだ。フロリダの暖かい気候はアルマンゾの療養のためになると思われたが、乾燥した平原で長く暮らしていたローラは南の気温と湿度に耐えられず、一家はすぐにデ・スメットへ戻り小さな家を購入した。ワイルダー一家は早成なローズが学校に入学できる特別許可を受け取り、もう一度農場を経営するためにアルマンゾは日雇い人夫、ローラは裁縫師として働き始めた。
ミズーリへの移動とその後
1894年8月31日に、生活が苦しくなった一家はミズーリ州マンスフィールド(Mansfield)へ最後の転居をした。彼らはなけなしの財産を払って農場を購入し、ロッキー・リッジ農場(Rocky Ridge Farm)と名付けた。それは厚く木が茂り石に覆われた0.18 km²の斜面に窓のない丸太小屋から始まったが、20年をかけて0.8 km²に及ぶ養鶏場、搾乳場、果樹園を含む農場に発展した。崩壊寸前の丸太小屋は結局印象的でユニークな10の部屋を持つ家屋と離れ屋に建て替えられた。
夫妻の経済的余裕の進展はゆっくりしたものだった。農場経営当初の唯一の収入は、荒れ地から石や木を取り除く過酷な労働から得られた馬車一台分の薪を、アルマンゾが街で売って得た50セントであった。果樹園に植えられたリンゴの木は7年間実をつけなかった。かろうじて生活ができるだけの新しい農場に住むのをあきらめ、ワイルダー一家は1890年代末に近くのマンスフィールドに移り住むことを決定した。アルマンゾは油の売人および郵便局留め人の仕事を得、一方ローラは鉄道労働者への食事を作る仕事を得た。時間に余裕のある時には、農場の改善や未来設計に時間を費やした。
娘のローズは知的な女性になり、両親が愛した田舎のライフスタイルに満足できず落ちつかないようになった。彼女は後に自らの不幸とマンスフィールドの学校における孤立は、一家の経済的困窮と彼女自身の学業成績の評判によるものと記述した。16歳のときまでに彼女はマンスフィールドでのカリキュラムに不満を持ち、より高度な学問を学べる高校に通うためルイジアナ州クロウリーに住むおばのイライザ・ジェーン・ワイルダー(Eliza Jane Wilder)の元で一年を過ごすこととなる。彼女は1904年に高校を卒業し、すぐにマンスフィールドに帰宅した。このときまでにワイルダー家の金銭的余裕は多少改善されていたが、ローズが高等教育を受けることは問題外であった。ローズはマンスフィールドで電信術を学び、すぐにカンザスシティに出発しウエスタン・ユニオンの電信手として働いた。1904年当時17歳の少女が生活のために家を出て働くことは珍しかったが、彼女の両親は彼らの娘がマンスフィールドで典型的な家庭の主婦として生涯を過ごすことには向いていないことを理解していた。注目に値する変化は続く数年の間に起こり、ローズ・ワイルダー・レーンは当時における有名な文学的な人物になった。ローラ・インガルス・ワイルダーが1930年代に『インガルス一家の物語』(Little House books)シリーズを発表し始めるまで、彼女はミズーリ州マンスフィールド出身の最も有名な人物であった。
なお、インガルス一家5人の子供の内、血を分けた子孫を残したのはローラだけである。ローラの娘ローズは息子を死産あるいは出産直後に亡くし、その後の手術で子供を産めない身体になったため、家族愛の象徴とも言えるインガルス一家の血脈は、意外なことに途切れている。
作品
- 『インガルス一家の物語』(Little House books)シリーズ
- 『大きな森の小さな家』(Little House in the Big Woods)
- 『農場の少年』(Farmer Boy)
- 恩地三保子訳、福音館書店、1973 のち文庫
- こだまともこ,渡辺南都子訳 講談社青い鳥文庫、1985 のち講談社文庫
- 足沢良子訳 草炎社 2006
- 『大草原の小さな家』(Little House on the Prairie)
- 古川原訳、新教育事業協会、1950
- 恩地三保子訳、福音館書店、1972 のち文庫
- こだまともこ,渡辺南都子訳 講談社青い鳥文庫、1982 のち講談社文庫
- 中村凪子訳、角川文庫、1988
- 足沢良子訳 草炎社 2005
- 『プラム・クリークの土手で』(On the Banks of Plum Creek)
- 恩地三保子訳、福音館書店、1973 のち文庫
- 「プラム川の土手で」こだまともこ,渡辺南都子訳 講談社青い鳥文庫、1983 のち講談社文庫
- 中村凪子訳、角川文庫、1989
- 『シルバー・レイクの岸辺で』(By the Shores of Silver Lake)
- 恩地三保子訳、福音館書店、1973 のち文庫
- 「シルバー湖のほとりで」こだまともこ,渡辺南都子訳 講談社青い鳥文庫、1984 のち講談社文庫
- 「シルバー湖のほとりで」足沢良子訳 草炎社 2006
- 『長い冬』(The Long Winter)
- 『大草原の小さな町』(Little Town on the Prairie)
- 鈴木哲子訳、岩波少年文庫、1957
- こだまともこ,渡辺南都子訳 講談社青い鳥文庫、1986 のち講談社文庫
- 谷口由美子訳、岩波少年文庫、2000
- 足沢良子訳 草炎社 2007
- 『この楽しき日々』(These Happy Golden Years)
- 鈴木哲子訳、岩波少年文庫、1974
- 「この輝かしい日々」こだまともこ,渡辺南都子訳 講談社青い鳥文庫、1987 のち講談社文庫
- 谷口由美子訳、岩波少年文庫、2000
- 「この輝かしい日々」足沢良子訳、草炎社、2008
- 『わが家への道―ローラの旅日記』(On the Way Home)
- 谷口由美子訳、岩波少年文庫、1983
- 『はじめの四年間』(The First Four Years)
- 鈴木哲子訳、岩波少年文庫、1975
- 谷口由美子訳、岩波少年文庫、2000
※日本では前半5作品は福音館書店が、後半5作品は岩波書店が版権を獲得し、別の訳者の翻訳で出版しているので、作中の言葉の言い回しなど多少雰囲気を異にする。なお、『農場の少年』はインガルス一家の家族史ではなく、夫のワイルダー家の家族史を扱っている。1974年には娘ローズを訪ねたローラへ、アルマンゾから送られた手紙に関する「West From Home」が出版されている。
関連項目
- ローラ・インガルス・ワイルダー賞 - ローラ・インガルス・ワイルダーを死後に記念に創設した賞。
- プラム・クリーク (ミネソタ州レッドウッド郡) - インガルス一家の家の近くの川として有名。