啓徳空港

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テンプレート:Infobox 空港 テンプレート:Chinese 啓徳空港(カイタックくうこう、けいとくくうこう)は、香港九龍ヴィクトリア・ハーバーに面した九龍城区、九龍半島の北東端にかつて存在していた国際空港である。香港の空の玄関、及びアジアの経由地として重要な役割を果たしていた。発着は国際線のみであった。1998年7月5日に閉港。

正式な名称は香港国際空港香港國際機場)だったが(後述)、所在地付近の地名から「啓徳空港」(啟德機場)と通称された。日本語では、広東語読みとそれから音写されたアルファベット表記から「カイタック」と読まれることが多かったが、日本語の音読みで「けいとく」とも読まれることもあった。

現在は、空港跡地には啓徳クルーズターミナル(後述参照)が立地している。

沿革

いきさつ

「啓徳」という地名の由来は、何啓(何啟)と区徳(區德)が経営した「啓徳営業有限公司」が、当時イギリスが植民地支配下においていた植民地であった香港のヴィクトリア・ハーバーに面した九龍湾北岸の辺りを埋めたことから、新しくできた土地が、2人の名前であり会社名でもある「啓徳浜」(啟德濱)と名づけられた。

空港完成

のちにアメリカ人のハリー・アボットが航空学校を設立するため、啓徳浜の一部を貸し滑走路を作ったが間もなく閉鎖された。1925年1月24日に運用開始し、その後1927年3月啓徳浜は香港植民地政府に徴用され、新しいイギリス軍用の空港として生まれ変わり、1937年には軍民両用の空港となった。これが「啓徳空港」である。

民間航路の開設

この間、1935年に管制塔と格納庫が完成し、1936年3月24日にはブリティッシュ・エアウェイズの前身、インペリアル航空が初の民間航空便として、香港と同じくイギリスが植民地支配していたマレー半島ペナンから初乗り入れを行った。その後数年の間に、パンアメリカン航空サンフランシスコから乗り入れ、その後エールフランスの前身、エア・オリエントがインドシナ半島から、国民党が大陸から退却するまで存在した旧中国航空公司が広州、上海から、旧中央航空公司の前身、ルフトハンザ航空との合弁の欧亜航空公司が北京から乗り入れを開始した[1]

戦争

1941年12月8日アジア太平洋戦争開始に伴い、イギリスとの間に開戦した日本軍がイギリスの植民地である香港のイギリス軍を攻撃し、その際空港は猛烈な爆撃を受け、空港内にあったイギリス軍の航空機や施設がほとんど破壊された。同年12月25日に香港は陥落しイギリス軍が全面降伏、日本軍が空港を含む香港一帯を占領した。

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第二次世界大戦後間もない頃の啓徳浜(1946年)

1942年3月に日本軍は陸軍兵士や現地で雇用した労働者数千人を動員し、周辺の村々に加え、宋王台九龍城砦の城壁などを取り壊し、そこから得た石材で滑走路の延長など設備の充実を行った。その後は日本軍の香港広州地域の防衛拠点の一つとして使用したが、1945年に入ると連合国の攻撃により空港は再び爆撃を受け、再び甚大な被害を受けた。

戦後

1945年8月の第二次世界大戦終結に伴う日本軍の撤退後も、香港はイギリスから中華民国に返還されることもなく、再びイギリスの植民地支配に甘んじる状況となった。

香港に戻ってきたイギリス軍は、取り壊された宋王台の跡地を修復することなく、戦争が終結したにもかかわらず空港を修復するためにさらに取り壊しを進めそのまま利用した。現在空港跡地の近くにある宋王台の石碑は実はレプリカで、大きさは実物の三分の一に過ぎない。

拡張

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英国海外航空とカンタス航空のダグラスDC-4(1958年)
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マレーシア・シンガポール航空のデハビランド・コメット(1966年)

1954年に空港拡張の基本計画が示され、1958年には2529メートルの新滑走路が完成した。この際、正式名称が香港国際空港香港國際機場Hong Kong International Airport)となった[1]

1962年には、ターミナルビルが完成した。すでに、従来のプロペラ機に替わり、デハビランド・コメットやボーイング707、ダグラスDC-8といったジェット機が主流となっており、1970年4月11日にはボーイング747が初めて着陸し、その5年後の1975年には滑走路が3390メートルに延長された[1]

このように空港の拡張は行われていたものの、アジア諸国の相次ぐ独立と経済発展を受けて、マレーシア・シンガポール航空ベトナム航空大韓航空などを中心に乗り入れ航空会社、便数ともに増加し、それに伴い発着回数が増加するにつれて、滑走路の短さや滑走路が1本しかないこと、近隣への騒音被害、旅客数、貨物取り扱い量の増加によるターミナルの狭さ、スポットの少なさが問題となっていった。

新空港計画

しかしながら、これ以上の空港の拡張は隣接地の買収も難しいうえに、ヴィクトリア・ハーバーに面した九龍湾北岸を埋め立てする余裕もないことから、1970年代に入り新空港の必要性が叫ばれ、建設地の選定が進められた。

1984年に香港の中華人民共和国への移譲、返還が決まると、ランタオ島北側の赤鱲角(Chek Lap Kok、チェク・ラップ・コク)に、イギリス系の建設会社主導で新空港の建設が開始された。なおその後も乗降客や貨物の取扱高は増え続け、1996年の統計は乗降客数 2,950 万人、貨物 1.56 tにまで増加した。

閉港

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閉港を間近にひかえた啓徳空港(1998年)

1998年に、郊外の赤鱲角に新空港となるチェクラップコク国際空港が完成し、同年7月6日に新空港は開港した。この新空港開港により、啓徳空港は7月5日午後11時50分発の最終便をもって閉港となり、1925年に運用開始して以来73年間の歴史に幕が閉じられることとなった(機能全面移管)。

なお、使用されていた地上支援機材の一部は新空港へと陸送されたほか、正式名称と啓徳空港に割り当てられていたIATA空港コードのHKGとICAO空港コードのVHHHは新空港に引き継がれた。

閉港後の変化

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閉港後の跡地(2007年11月)

閉港後、ターミナルビルは取り壊されずに残され、香港政庁の合同庁舎(啓徳政府大楼(啟德政府大樓)、Kai Tak Government Building)として、従前の設備を利用して税関や入国管理当局の訓練所などとして利用された。空港の閉鎖後、建物が取り壊されるまでに、滑走路はBEYOND張惠妹などの大型コンサートに数回使用された。この他、出発ターミナルだった場所にゲームセンターや屋内ゴーカート乗り場などのアミューズメント施設も入居していたが、2004年9月頃から始まった工事により取り壊された。

運用当時は、航空機が市街地上空を通過する都合上、周辺は空港に近づくにつれ低いビルしか建てられない、という高さ制限が設けられていた。空港が無くなった現在はその規制も撤廃された。そのため、例えば高級住宅地の九龍塘では、従来12階建て相当の高さに規制されていたが、現在ではその内の数軒が30階建て程度のマンションに建て替えられるなど、景観に変化が出始めている。また、空港に誘導するための着陸誘導灯が無くなったため、市街地でのネオンサインの点滅が解禁となった。

啓徳クルーズターミナル

閉港から15年後の2013年6月12日、同空港跡地に香港初のクルーズ船用の波止場「啓徳クルーズターミナル」が開業された[2]。このターミナルは、世界最大の客船も停泊可能である。またターミナル待合室は、オフシーズンには展示会場などとして利用できる多目的ホールとなっている。閉港から15年後、香港の「空の玄関」から「海の玄関」として再出発することとなった。

施設

旅客ターミナル

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旅客ターミナル

開港後数回に渡り増改築を繰り返し、最終的に8つのゲートを持つ旅客ターミナルへと進化した。しかし、乗り入れ便数に対してボーディングブリッジの数が8基と少なく、多くの便が航空機との間のバスでの移動を余儀なくされていた。

なお、旅客ターミナル内には数多くのレストランやみやげ物店があり、発着エリア内には免税店や土産物店、航空会社ラウンジなどがあった他、旅客ターミナルに直結して「リーガル・エアポート・ホテル」(現在は「リーガル・オリエンタル・ホテル」と改名)があった。

その他

貨物ターミナルが旅客ターミナルと離れて置かれていた他、空港内の整備エリアには、当時主にキャセイパシフィック航空の整備を行っていた「香港エアクラフト・エンジニアリング(HAECO、中国語:香港飛機工程)」社のハンガーが置かれていた。 テンプレート:-

香港アプローチ・香港カーブ

ヒストリーチャンネルにおいて、「世界で最も危険な空港」第6位に選ばれている[3]

啓徳空港は、滑走路13への着陸進入の際大きく機体を傾けつつ九龍仔公園上空近辺で機体を右旋回させ、ビル群すれすれの高さを飛行して着陸する「香港アプローチ(香港カーブ)」で有名だった。

ファイル:Kowloon Tsai signal hill.JPG
殆ど塗装が剥げてしまったが現在も残るチェッカーボード(写真中央、九龍仔公園より)

しかし香港アプローチは、最終進入へ旋回する直前に ILS を解除しなければならないため、飛行すべき場所の目安として空港とは関係のないビルの屋上などに取り付けられた進入路指示灯を頼りにするという、パイロットにとっては相当な技量が要求されるものだった。それゆえに「世界一着陸が難しい空港」と称されていた。なお、旋回直前までの進入路で最も高い障害物である空港北西部の小さな丘は、紅白で塗られた「チェッカーボード」が置かれ啓徳空港のランドマークのひとつでもあった。

滑走路13へは、一旦西側に迂回し現在の香港国際空港上空あたりで約180度右旋回の後、啓徳空港の西側から東に向かって進入。この際本来なら空港の滑走路延長上から射出されている誘導電波 ILS に従って進入するが、旧空港は滑走路に対し48度オフセットで設定されて射出されている誘導電波 IGS に従い一旦進入し、空港から約5マイルに設定されたミドルマーカを通過後に大きく右旋回させ、地上に見える進入路指示灯の指示に従い滑走路へ進入する方式が多用された。

この滑走路13への最終進入態勢である香港カーブはパイロットの技量が問われ、香港を拠点としていたキャセイパシフィック航空のパイロットたちは安全と乗り心地を考えた結果、IGSを早めにディスエンゲージし北側へわずかに進路を修正後、緩やかに右旋回をしバンク角も少なめにスムーズに着陸することを「秘伝の技」としてあみ出していた。逆に慣れていないパイロットは小刻みに変針して滑走路に降りる寸前まで機体の進路が定まらなくなりがちで、同時に乗り心地も揺れが大きく良くなく、接地地点が遠くなり着陸滑走する距離が短くなってしまったりすることもあった。さらに過密空港だったため、接地後航空管制官からすぐ誘導路へ待避指示が出ることが多く、着陸後ブレーキの急制動を掛ける。

それゆえ、着陸進入に失敗してゴーアラウンドしたり、着陸過走して滑走路先の海中に突っ込んだり、尻もち着陸をしたり、エンジンを地面に接触させたりするトラブルが多かった。 テンプレート:-

主な事故

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1931年に起きた格納庫の火災

香港アプローチ・カーブのためもあり、滑走路をオーバーランして中に突入したり、着陸時にしりもちを起こすなどの小さな事故は多かったものの、パイロットが緊張するためか、着陸に失敗し市街地に突っ込むような事故は皆無であった。

また当時は、着陸誘導灯と誤認しないために、香港内の全てのネオンサインは点滅させてはいけない決まりになっていた(着陸誘導灯は、空港とは無関係の一般のビルの屋上に設置されていた)。

本拠地としていた航空会社

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参考文献

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

外部サイト

テンプレート:Sister

香港アプローチの模様:

  1. 1.0 1.1 1.2 Kai Tak Airport 1925-1998, Civil Aviation Department, The Government of the Hong Kong Special Administrative Region
  2. Kai Tak Cruise Terminal
  3. ヒストリーチャンネル「MOST EXTREME AIRPORTS」