徳川治保
徳川 治保(とくがわ はるもり)は、常陸国水戸藩の第6代藩主。水戸藩中興の祖といわれる。
目次
生涯
寛延4年(1751年)8月16日、徳川宗翰の長男として生まれる。幼名は英之允、後に鶴千代。
明和3年(1766年)、父の死去により16歳で藩主を継ぐ。文化2年(1805年)の死去まで40年間におよぶ治世は、初代頼房に次ぐ長さである。しかし3代続けての若年での藩主就任であり、しかも亡父の改革が挫折したことによる混乱などもあって、藩の財政はさらに悪化しており、百姓一揆にも悩まされた。安永7年(1778年)には、幕府から財政立て直しの非常措置を命じられている。これを受けていくつかの改革が行われたが、天明3年(1783年)に始まる天明の大飢饉により、一層の改革を求められることとなった。
天明7年(1787年)、他の御三家や一橋治済とともに、田沼意次一派の粛清と松平定信の老中就任を推進した。
江戸定府が水戸藩主の定めであったが、寛政2年(1790年)、藩政改革のために就任24年目にして初めて水戸に入った。その帰国費用も、領内へ御用金を課すことでようやく調達された。半年の水戸在城ののち翌年江戸に帰ったが、その後の寛政期に多くの改革が行われた。幕府の寛政の改革の影響を受けたものでもある。
治保は、藩財政再建を主とした藩政改革を断行した。寛政5年(1793年)、藩士の禄の半知借上(給料50%減)などの緊急策を実施するとともに、献上金をしたものを郷士として取り立てる制度も実施した。この頃郷士となった者は、献金以外も含めて20人といわれる。また、人口減少で荒れた農村の復興策として、3人以上の子供のいる農民に稗を支給する制度を拡充したり、間引き防止のため妊婦改め、出産届などを厳重にした。寛政11年(1799年)には、郡奉行の数を増やすなど郡制改革も実施している。
また同じく寛政11年に、水戸城下の振興策として消費促進の政策をとった。庶弟である付家老中山信敬が水戸に下向し実行したというこの政策は、「江戸仕掛け」と呼ばれた。春秋の馬市の開催、江戸芝居や相撲興行などを行い、盛んに消費を促し「奢侈、華麗な姿を見るとほとんど江戸のようである」ということから名づけられた。しかし、倹約第一の政策を進めていた幕府の命により、1年もたたずに中止された。そのほか、鋳銭事業や製紙事業、タバコ、こんにゃくなどの殖産興業政策に尽力している。
さらに、第2代藩主徳川光圀にならって学問奨励にも尽力した。停滞していた『大日本史』編纂事業を軌道に乗せ、治保自ら学者とともに、毎朝『大日本史』の校訂作業にあたったという。また藩士に対し、城内で彰考館の学者による講義を始めたり、学力試験を試みるなど、学問重視の姿勢を明らかにしている。町人だった藤田幽谷や農民の長久保赤水などを、その学識ゆえに藩士に取り立てている。加えて、立原翠軒ら彰考館の総裁3人を政治顧問として、実際の政治に学者の意見を反映させようとした。こうした空気のもと、翠軒やその門下の幽谷などが、農村復興の政策や蝦夷地での対ロシア政策など、藩内外の問題にも積極的に発言するようになっていく。 治保自身も優れた文人であり、『文公文集』や『尚古閣雑録』など著書が多数ある。
文化2年(1805年)11月1日に死去した。享年55(満54歳没)。諡号は文公。跡を嫡男の治紀が継いだ。
官歴
※日付=明治5年12月2日までは旧暦。
- 1751年(寛延4年)
- 8月16日 - 誕生。英之允を称す。
- 12月 - 鶴千代に改める。
- 1762年(宝暦12年)閏4月18日 - 元服し、将軍徳川家治の偏諱を授かり治保と名乗り、従四位上に叙し、左衛門督に任官。
- 1763年(宝暦13年)12月15日 - 正四位下に昇叙し、左近衛権少将を兼任。
- 1766年(明和3年)
- 1768年(明和5年)12月1日 - 参議に補任。
- 1795年(寛政7年)12月11日 - 権中納言に転任。
- 1805年(文化2年)11月1日 - 薨去。享年55(満54歳没)。諡号は源文公、法名は興徳院殿大蓬社猷譽仁岳。墓所は茨城県常陸太田市の瑞龍山。
- 1907年(明治40年)11月15日 - 贈正二位。