コンスタンディノス・ミツォタキス
経歴
ミツォタキスはクレタ島ハニアに生まれた。多くのギリシャの政治家と同様に彼も政治家一家の生まれであり、祖父と父は国会議員、エレフテリオス・ヴェニゼロスは叔父にあたる。青年期にはナチスのクレタ島占領に反対してレジスタンス運動に加わった。アテネ大学で法学と経済学を学んだ後、1946年に国会に当選した。
ヴェニゼロスの親類であった彼は伝統的なギリシャのリベラルであり、ゲオルギオス・パパンドレウの率いる中央同盟に加わっていた。しかし1965年に党内の反パパンドレウ派を率いて野党に転じ、パパンドレウ政権の崩壊を招いた。1967年にゲオルギオス・パパドプロスによるクーデターが発生するとミツォタキスは逮捕され、国外退去処分となった。
1974年の民主化後の総選挙では無所属で立候補し落選した。1977年に新自由主義党からでて当選し、翌年1978年にはコンスタンディノス・カラマンリス率いる新民主主義党(ND)に加わった。1978年に経済担当相、1980年には外務大臣に任命されている。
1981年の選挙で新民主主義党はアンドレアス・パパンドレウ率いる全ギリシャ社会主義運動(PASOK)に敗北した。1984年にミツォタキスはNDの党首に就任し、その後10年にわたりパパンドレウとギリシャ政界を率いることになった。1989年の選挙ではパパンドレウがクレタ銀行をめぐるスキャンダルに巻き込まれ、NDが第一党となった。数ヶ月前にPASOKにより改正されていた選挙法によって比例代表制がしかれていたため、NDは安定多数による政権を握る事ができなかった。議会の硬直化の後1990年4月に行われた選挙ではNDがかろうじて過半数を制し、ミツォタキスは首相に任命された。
ミツォタキスは政府の財政規模を小さくし、市民サービスの改善に取り組んだ。外交ではパパンドレウ時代に関係が冷え込んだアメリカとの信頼関係の構築につとめ、1990年にはギリシャの首相として26年ぶりにアメリカを訪問した。NATOへの再加入をはたし、トルコとの関係改善にも取り組んだ。
パパンドレウは政治家を裁く特別裁判Eidiko Dikastirioでかろうじて無罪となった。パパンドレウは、善隣外交を展開するミツォタキスがマケドニア共和国、キプロス問題に関して弱腰すぎると批判し、党勢の回復を狙った。旧ユーゴスラビアのマケドニア共和国の名称を巡る問題に対し、国民は大きな関心を寄せ、1993年の選挙ではパパンドレウ率いるPASOKが勝利した。ミツォタキスは党首を辞任した。
2004年3月の選挙を機に彼は政界を引退した。息子のキリアコスは国会議員、娘のドラ・バコヤンニはアテネ市長として将来のND党首にも期待されている。現在ミツォタキスはクレタ島の考古遺産の保護に取り組んでいる。
外部リンク
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