バンドン

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テンプレート:世界の市 バンドンテンプレート:Llang)は、インドネシアジャワ島西部にある都市(市)である。西ジャワ州の州都であり、また、インドネシアでジャワ人に次いで人口の多い種族であるスンダ人が生活し、スンダ語が話される「スンダ地方」の中心地である。

植民地時代に政治・経済・文化の中心地の1つとして発展し、また快適に過ごせる住環境でもあったことから「ジャワのパリ」と呼ばれ、多くの外国人(オランダ人・中国人日本人など)が居住していた。現在は人口集中、過剰開発、そして車の排気ガスや廃棄物などで環境が悪化しつつある。

地理

首都ジャカルタから東南に約200km離れた都市であり、南緯6度9分、東経107度6分付近に位置する。中心地の標高は海抜700mで、四方を標高2000mクラスの山々に囲まれている。年間を通して、日中の気温は27-28度、夜は17-18度で、熱帯にありながら涼しく過ごしやすい環境である。

観光

  • ホワイトクレーター (Kawah Putih)
  • タンクバンペラフ山 (Gunung Tangkuban Perahu)

歴史

  • 15世紀のパジャジャラン王国時代にすでに住民が住んでいたという伝承があるが、本格的に都市開発がはじまるのはオランダ植民地時代になってからである。
  • 1946年3月、対オランダ独立戦争期、イギリス・オランダ連合軍に追い詰められたインドネシア軍が自ら町に火を放ってバンドンから撤退した。「バンドン火の海事件」と呼ばれるこの撤退戦で、インドネシア軍兵士がふたたびこのバンドンを取り戻す決意を歌ったのが「ハロ・ハロ・バンドン」である。この歌は今日でも民族歌の1つとして歌い継がれている。
  • 1955年4月、バンドンでバンドン会議(第1回アジア・アフリカ会議)が開催される。

交通

  • 空港
フセイン・サストラネガラ空港
  • 道路
2005年にチカンペック - バンドンに高速道路が開通。渋滞が発生しなければジャカルタから高速バスで約2時間。
ジャカルタからボゴール-バンドン-ジョクジャカルタ-スラバヤを結ぶ路線の一部として1884年ジャカルタ-バンドン間が開通、、1894年ジャカルタ-スラバヤが全通した。その後1934年にブカシ-チカンベックを経由するルートも開通した。1917年に蘭印国鉄本社がジャカルタから移転、今も国営鉄道会社本社がおかれている。しかしジョクジャカルタ~クロヤ(バンドン~東に284km)~チレボン経由ジャカルタへのルートが主力になり幹線からローカル線へ。ボゴール経由のルートは老朽化によるトンネル崩落・鉄橋の強度不足などで一部区間が不通。ジャカルタとはチカンベック経由で173kmだが所要時間は約3時間、チカンペック-バンドン間は700mの標高差が有り線路が九十九折になっていて最高速度が50㎞に制限された区間が有ること、ジャカルタ都市圏通勤路線との線路供用で飽和状態のため。共用区間のマンガライ駅-ブカシ駅間が複々線化工事が行われており、完成後は改善される見込み。

教育・研究

  • バンドン工科大学(Institut Teknologi Bandung)--理工系の国立大学。前身は、オランダ領東インド時代、1920年に設立された「バンドン工業高等学校 Technische Hoogeschool te Bandung」で、インドネシアの初代大統領スカルノもこの学校を卒業している。
  • パジャジャラン大学(Universitas Padjadjaran)--1957年に開学した国立大学。初代学長はインドネシア民族主義運動、独立初期の国政で活躍したイワ・クスマ・スマントリ。
  • インドネシア教育大学(Universitas Pendidikan Indonesia) --旧バンドン教育大学(IKIP-Bandung)。略称は「UPI」。

関連文献

  • 村井吉敬『スンダ生活誌 - 変動のインドネシア社会』、NHKブックス、1978年
  • アイプ・ロシディ『スンダ・過ぎし日の夢』、粕谷俊樹訳、めこん、1987年
  • 古賀俊行 『インドネシア鉄道の旅 魅惑のトレイン・ワールド』、潮書房光人社、2014年7月

姉妹都市

関連項目

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