井伊直盛
井伊 直盛(いい なおもり、永正3年(1506年) - 永禄3年5月19日(1560年6月12日))は、戦国時代の武将。遠江国の国人。遠江国引佐郡井伊谷城(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)城主。井伊直宗の子。次郎。信濃守。室は友椿尼(氏不詳)。娘に直虎(次郎法師・祐圓尼)。
略歴
明応3年(1494年)、駿河国守護・今川氏親が遠江国へ進出すると、井伊氏は遠江国守護・斯波氏や大河内氏と結託して対抗した。この争いは明応、文亀、永正と断続的に続いたが、直盛は永正10年(1513年)、防戦していた遠江国三岳城(御獄城)の陥落によって降伏、以後今川氏に仕えた。なお、この遠江国をめぐる覇権争いは、大河内氏の滅亡と斯波氏の没落によって収束し、遠江国守護職を取り戻した今川氏が名実共に駿河・遠江の2ヵ国を支配下に治めることとなった。
亡父・氏親の頃に支配力を確立した駿河、遠江の2ヵ国に、新たに三河国を傘下に治め、今川氏最大の版図を築いた今川義元が、永禄3年(1560年)に尾張国への遠征の為、大軍を動員。直盛は、その先鋒の大将に任じられた。
織田氏の各拠点を奪取するなど、緒戦から優位だった今川軍。ところが5月19日、桶狭間にて休息中に豪雨の影響で、織田信長自ら率いる織田本隊の強襲を許してしまい、多くの将兵を失っただけでなく、総大将の義元を撃ち獲られる大敗に終わった(桶狭間の戦い)。
討死を遂げた直盛は、井伊氏の菩提寺・龍潭寺(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)に葬られた。法名は龍潭寺殿前信州太守天運道鑑大居士。
死後
男子の無い直盛の戦死後、家督を継いだ従弟の直親は、讒言によって今川氏への叛意を疑われたため斬首された。
その後やむなく、直盛の娘・直虎が政務を執ったが、今川氏の傘下を離れた松平元康(徳川家康)の遠江侵攻を受けると、この傘下に入る。のちに直親の遺児・直政は家康に見込まれて、徳川四天王の1人に数えられるまでになる。