坂上石楯

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坂上 石楯(さかのうえ の いわたて[1]、生没年不詳)は、日本の奈良時代の人物。氏姓ははじめ石村(いわれ)村主、のち坂上忌寸鎮守府軍曹石村高足の子とする系図がある[2]。官位は従五位下勲四等出羽

出自

石村氏は、三河国碧海郡に定着した系渡来氏族で、仁徳朝に渡来した阿智使主に随い来日した者に石村村主の祖にあたる人物がいたという[3]。一説では後漢第7代皇帝少帝懿の後裔で、阿智使主に随い来日した古那を祖とし[2]、石村の呼称は大和国磐余の地に因むものとされる[4]

事績

天平宝字8年(764年藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)に際して、敗北し妻子3,4人とともに船で琵琶湖上に逃れた恵美押勝(藤原仲麻呂)を捕らえてこれを斬り、押勝の首をに運んだ。石楯はこのとき軍士、つまり一兵士であった。この功績により、大初位下から一挙に従五位下に昇叙され、翌天平神護元年(765年)正月には、勲二等から六等までの乱の功賞があった中で、石楯は勲四等を与えられた。

同年4月26日に、左京人石村石楯ら3人と、参河国碧海郡の人従八位上石村押縄ら9人が、同時に坂上忌寸の姓を賜与された。この記事により、石楯が三河国碧海郡の石村氏と同族関係にあり、かつ自らは左京の人であったことがわかる。藤原仲麻呂の乱では坂上苅田麻呂も功を立てており、石村(村主)氏は地位を向上させつつあった遠縁の坂上氏の下に組み込まれつつ、姓を良いものに改めたことになる。

天平神護2年(766年)5月10日百済文鏡が出羽守に任命されたのと同日に、石楯は出羽介に任ぜられた。宝亀5年(774年)5月中衛将監

宝亀10年(779年)5月1日に、妻の紀朝臣多継、息子の坂上忌寸氏成、娘の秋穂の三人が、故父石楯の厚恩に報じるために、大般若波羅蜜多経1部600巻を写経して納めた。このうちの巻176が唐招提寺に残り、跋語によってその事情が伝わっている。また、このことから、宝亀10年(779年)までに没したことがわかる。

年譜

和暦年 西暦年 和暦月日 事柄
天平宝字8年 764年 9月18日 軍士として、藤原恵美朝臣押勝(藤原仲麻呂)を斬った。
10月7日 大初位下から従五位下に昇叙される。
天平神護元年 765年 1月7日 勲四等を叙された。
4月26日 一族3名とともに坂上忌寸の姓を賜与された。このとき従五位下外衛将監
天平神護2年 766年 5月10日 出羽介に任ぜられる。
宝亀5年 774年 5月29日 中衛将監に任ぜられた。
宝亀10年 779年 5月1日 坂上氏成・秋穂とその母紀朝臣多継とが、故父石楯のために大般若波羅蜜多経をおさめた。

系譜

  • 父:石村高足
  • 母:不詳
  • 妻:紀多継
    • 男子:坂上氏成
    • 女子:坂上秋穂
  • 妻:多藤木姫
    • 男子:坂上身毛

参考文献

  • 田中卓「押勝の首を挙げた軍士」、『壬申の乱とその前後』所収、国史刊行会、1985年。論文初出は『日本歴史』80、1955年1月

脚注

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  1. 旧仮名遣いでの読みは「さかのうへのいはたて」
  2. 2.0 2.1 『若狭武田鹿島香取大宮司相模軍荼利平岡・・・系図』所収の「相模軍荼利系図」(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会,1986年 による)
  3. 『新撰姓氏録逸文』
  4. 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年