エミール・ザトペック
テンプレート:MedalTableTop テンプレート:MedalSport テンプレート:MedalGold テンプレート:MedalGold テンプレート:MedalGold テンプレート:MedalGold テンプレート:MedalSilver テンプレート:MedalBottom エミール・ザトペック(Emil Zátopek、1922年9月19日 - 2000年11月22日)は、チェコ(現役当時はチェコスロバキア)の陸上選手。
経歴
1922年9月19日にKopřivniceで慎み深い家族の6番目の子として生まれる。16歳の時にズリーンにあったBata Shoesの工場で働き始めるが、ある日突然ザトペックを含めた4人の青年が工場の実業団のコーチから陸上競技の試合に出るよう言い渡された。ザトペックは自分の体格を理由にこれを断るも、メディカルチェックを受けさせられ異常無しと言い渡されて仕方なく試合に出場し、本番ではやる気が出たこともあり100m走で2位に入る。これが彼の競技人生のスタートであった。その後、地元のアスレチッククラブに所属し、パーヴォ・ヌルミをモデルとして競技を続けた。1943年に2000m、3000m、5000mの当時のチェコスロバキア記録を更新。第二次世界大戦ではチェコスロバキア軍に入るも練習を優先することを許され、1946年にヨーロッパ選手権でチェコスロバキアのナショナルチームの一員に選ばれ、5000mで14:25.8を出しチェコスロバキア記録を更新する。
ロンドンオリンピック(1948年)の10000m、ヘルシンキオリンピック(1952年)の5000m・10000m・マラソンで金メダルを獲得した。この長距離三冠の記録は今後達成する選手はいないだろうと考えられている。
顔をしかめ、喘ぎながら走るスタイルから『人間機関車』と称された。また、インターバルトレーニングの創始者としても知られている。
妻のダナ・ザトペコワも陸上競技選手で、ヘルシンキオリンピック(1952年)のやり投競技で金メダル、ローマオリンピック(1960年)のやり投競技で銀メダルを獲得している。
いわゆるプラハの春の際には、自由化を求める「二千語宣言」の署名者の一人となったため、続くソ連軍のチェコ侵攻のあとは国内で冷遇される日々が続いたが、1989年の民主化により復権した。
マラソン全成績
年 | 大会 | 開催国 | 成績 | タイム | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1952年7月27日 | ヘルシンキオリンピック40px | テンプレート:Flagicon フィンランド | テンプレート:優勝 | 2:23:03.2 | 五輪新記録 |
1956年12月1日 | メルボルンオリンピック40px | テンプレート:Flagicon オーストラリア | 6位 | 2:29:34 |
エピソード
1936年、ベルリンオリンピックの5000m・10000mでともに4位入賞を果たした村社講平の力走に、当時13歳の少年であったザトペックは感銘を受ける。
1981年4月、多摩ロードレースに出場するために来日したザトペックが「どうしても村社講平と一緒に走りたい。彼は私を陸上競技の道に進ませてくれた、憧れの人なんだ」と希望したことから、当時75歳であった村社が「そこまで言うのなら」と一緒に走ることを快諾、5kmをザトペックと共に走った。
レースの後、ザトペックは「今日は我が人生で一番幸福な日だ。私にとってのヒーローであるムラコソと一緒に走ることが出来たのだから」と語り、その感激を語っている。テンプレート:要出典
関連書籍
- 『ザトペック 勝利への人間記録』(F.R.コジック(著)、南井慶二(翻訳)、朝日新聞社、1956)
- 『記録をうちたてた人々(さ・え・ら伝記ライブラリー 6)』(鈴木良徳(著)、さ・え・ら書房、1965/10、ピエール・ド・クーベルタン、ジム・ソープ、パーヴォ・ヌルミ、織田幹雄、人見絹枝、ジェシー・オーエンス、フランシナ・ブランカース=クン、エミール・ザトペックを紹介、ISBN 978-4378018065)
- 『E・ザトペックの実像 人間機関車』(ズデニェク・トーマ(著)、大竹国弘(翻訳)、ベースボールマガジン社、1982/1、ISBN 978-4583021584)
関連項目
- 村山実 - 投球フォームが「ザトペック投法」と呼ばれた。
- ザトペック (小惑星)
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