李承晩ライン
李承晩ライン(りしょうばんライン[1]、テンプレート:Lang-ko)は、マッカーサー・ラインの廃止を目前とした1952年(昭和27年)1月18日、これに代わるものとして大韓民国(韓国)初代大統領・李承晩の海洋主権宣言に基づき、韓国政府が一方的に日本海・東シナ海に設定した軍事境界線[2]。韓国では「平和線(평화선)」と宣言された。
目次
概要
テンプレート:Multiple image 李承晩ラインは、建国されたばかりの韓国が海洋資源の独占、領土拡張を目的とし、廃止が目前であったマッカーサー・ラインの代わりに独断で公海上に突如設定した排他的経済水域である。この海域内での漁業は、韓国籍漁船以外では行えず、これに違反したとされた漁船(主として日本国籍、ほか中華人民共和国国籍)は韓国側によって臨検、拿捕、接収、銃撃を受けるなどした。銃撃により乗組員が殺害される事件も起こっている(第一大邦丸事件など)。
これに日米両国は「国際法上の慣例を無視した措置」として強く抗議した。しかし、当時はサンフランシスコ平和条約を署名はしていたものの発効3ヶ月前で日本の主権は回復しておらず、また日本の海上自衛隊の前身組織である海上警備隊・警備隊も存在していなかった。
日韓基本条約締結の際の日韓漁業協定の成立(1965年)により、ラインが廃止されるまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた[3]。抑留者は6畳ほどの板の間に30人も押し込まれ、僅かな食料と30人がおけ1杯の水で1日を過ごさなければならないなどの劣悪な抑留生活を強いられた。共産主義者だとわかると抑留期間も数年間におよんだ[4]。
このような悪辣な人権侵害について日本弁護士連合会はただちに抗議して、「凡そ、1国の領海は、3海里を限度とすることは国際法上の慣行であり、公海内に於ける魚族其他一切の資源は人類共同の福祉の為めに全世界に解放せらるべきである。然るに、韓国大統領は、これを封鎖して、平和的漁船を拿捕し、漁民を拉致し且つ刑事犯人として処罰するが如きは国際正義に悖る行為である。よって、本委員会は、正義と平和の名において、茲に韓国の反省と漁船、漁民の即時解放を求め、以って、相倚り相助け東亜の再建に貢献することを期待する。」といった内容を含む「李ライン問題に関する日本漁民拉致に対し韓国の反省を求める件(宣言)」[5]を満場一致で議決して人権擁護の抗議運動を全国で展開した。
李承晩ラインの問題を解決するにあたり、連合国による占領下にあった日本政府は韓国政府の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日韓国・朝鮮人472人を放免し、在留特別許可を与えた。一方、韓国政府は日本人抑留者の返還には同意したが、日本政府が摘発した韓国人密入国者、重大犯罪者、政治犯等の強制送還は拒絶し、日本国内に自由に解放するよう要求した[6]。
背景
第二次世界大戦後、日本漁業の経済水域はマッカーサー・ラインによって大きく制限されたものであったが、きたるべきサンフランシスコ講和条約の締結による日本主権の回復後、この制限の撤廃が予定されていた。
1949年1月7日、韓国は対馬領有を宣言し、連合軍占領下で主権が制限されている日本に対馬返還を要求した[7]。さらに韓国はサンフランシスコ講和条約に「戦勝国」として参加することを希望していたが、連合国が大韓民国臨時政府を承認した事実がなく、また第二次世界大戦当時大韓帝国は日本に併合されており交戦していたこともなかったため、当然の事ながらこの要求はイギリスやアメリカによって即座に拒否された[8]。
1951年7月19日、韓国政府はサンフランシスコ講和条約草案を起草中の米国政府に対し要望書を提出。この要望書では日本の在朝鮮半島資産の韓国政府およびアメリカ軍政庁への移管、竹島、波浪島を韓国領とすること、並びにマッカーサー・ラインの継続を要求していた。これに対し、アメリカは1951年8月10日に「ラスク書簡」にて回答、在朝鮮半島の日本資産の移管についてのみ認め、後は韓国政府の要求を拒否した。
「ラスク書簡」の約1ヶ月後の1951年9月8日にサンフランシスコ講和条約は調印。翌1952年4月28日に条約が発効される手筈となっており、この発効と同時にマッカーサー・ラインは廃止される予定となっていた。
1952年1月18日、朝鮮戦争下の韓国政府は、サンフランシスコ平和条約の発効3ヶ月前に、突如としてマッカーサー・ラインに代わるものとして「李承晩ライン」の宣言を行った。これに対し日米両政府は非難の声を挙げたが、日韓間に国交がないことから、その解決には長い道のりを要することとなった。韓国国内では、済州島四・三事件、保導連盟事件及び国民防衛軍事件等が発生し各事件では数万人以上の犠牲者が発生しており、韓国国民の韓国政府に対する不満が高まっていたという背景があった。
国際法上の評価
国際法は国家による反復履行及び法確信により慣習法が成立する。よって、1951年当時において排他的経済水域又はそれに類する慣習法及び当該海域での拿捕等の行為に関する慣習法が成立していたかが問題となる。なお、現在では排他的経済水域における生物資源の探査・保有・管理のために必要な措置として、乗船、検査、拿捕及び司法上の手続等を取ることができるとされている(国連海洋法条約第73条)が、条約は不遡及であり[9]1994年に発効した国連海洋法条約を1951年の李承晩ラインに適用し正当化することはできないことに留意が必要である。
経済水域一般に関する状況
トルーマン宣言
1945年9月28日にアメリカのトルーマン大統領は、「公海の一定水域における沿岸漁業に関する大統領宣言」[10]を行った。この宣言は、「アメリカ国民のみが利用していた水域をアメリカの統制と管理下におくことが適当であり、他国民とともに共同利用されてきた水域は他国と合意された規程により統制管理される」としており、アメリカの資源の将来政策を述べるにとどまった[11]。
南米諸国による漁業独占権宣言とそれに対する欧米諸国の抗議
トルーマン宣言に触発され、アルゼンチン(1946年)、パナマ(1946年)、チリ(1947年)、ペルー(1947年)、コスタリカ(1948年)、エルサルバドル(1950年)、ホンジュラス(1951年)、チリ・ペルー・エクアドル(1952年)が漁業資源に関する宣言を行ったが、トルーマン宣言と異なり自国民による排他的な漁業独占権を一方的に設定するものであった。
アルゼンチン、チリ、ペルー、ホンジュラス等は自国の宣言を正当化するためにアメリカのトルーマン宣言を援用したが、アメリカはこれら宣言に対して抗議を行っている。1948年7月2日のアルゼンチンに対する抗議文では「アルゼンチンの宣言に含まれている原則は、アメリカ合衆国の宣言と極めて異なっており、国際法の一般に認められた原則に違反しているように思われる」とし、他国への抗議も同様であった。フレガー国務省法律顧問は1955年のニューヨークでの講演で、トルーマン宣言が漁業独占権を主張しているとするのは「誤解」としている。しかし、アメリカの抗議にも関わらず1954年にペルーはパナマ船籍船を拿捕し、エクアドルは1955年にアメリカ漁船に発砲・拿捕している。
イギリスは3海里を越える水域の排他的管轄権を認めないと1948年にチリ、ペルーに抗議を行っており、1952年にもチリ、エクアドル、ペルーの共同宣言にもアメリカと共同で抗議している。フランスは、1951年の覚書においてメキシコ、ペルー等の国名を挙げたあとに、一方的宣言により公海で主権を拡張し、他の国々の権利をおかしてはならないとした[11]。
国際法学者及び国際法委員会
1951年の国際法委員会における大陸棚及び関連事項についての条約の草案では、「沿岸国の領海より100海里以内にある場合には、沿岸国は資源保存の規制に参加し得る」とし沿岸国の特殊的地位を認めたが、「いかなる場合にも、いかなる水域も漁業を行おうとする他国民を排除してはならない」として排他的独占権は認めていない。1953年の国際法委員会の草案も同様であった。国際法学者のハーシュ・ローターパクトは1952年の国際法委員会の席上「いかなる国際裁判所もエルサルヴァドルの領海200海里の主張や他国の同様な最近の主張を認めないであろう」とし、フランソアも同様の発言をしている[11]。
韓国の主張とアメリカ等の抗議
韓国は1952年1月27日に李承晩宣言韓国政府声明を発表し李承晩ラインを国際法において確立されたものとした。その主要な主張は以下のとおりである。
- トルーマン宣言、メキシコ、アルゼンチン、チリ、ペルー及びコスタリカ諸国政府による宣言と同性格である
- マッカーサーラインは有効に存続している
- 接続水域の地位は国際法上確立しており、接続水域において漁業の絶対的自由は認められない
しかし、李承晩ラインがトルーマン宣言と性格が異なることはアメリカによる南米諸国の宣言への抗議でも明らかであり、ラスク書簡によりマッカーサーラインの継続はアメリカから拒否されている。韓国政府は60海里に及ぶ漁業独占権を接続水域として整理しているが、当時のアメリカ、イギリスが主張する接続水域は12海里(22km)であり、フランスは20kmであった。また、接続水域とは、関税や検疫のために限定された管轄権を行使できる水域を示しており、漁業独占のための水域ではなかった[12] [13]。 李承晩の宣言を受けて、2月11日にアメリカ政府は公海上での行政権行使に対する懸念を示す口上書をもって抗議を行った。[14]。また、6月11日には中華民国が、翌1953年1月12日にはイギリスが抗議を行った。[15] 更に、1954年に作成された米国機密文書・ヴァン・フリート特命報告書によれば、アメリカ政府は竹島問題をサンフランシスコ平和条約により日本領として残したこと、李承晩ラインの一方的な宣言が違法であることを韓国政府に伝達している。
問題解決への道
問題解決には長い年月を要した。その原因は、
- 日韓両国に正式な国交がなかった。
- 国交正常化交渉は賠償請求権を巡って紛糾し、遅々として進まなかった。
- アメリカが二国間問題であるとの立場を取り積極的に介入しなかった。
である。
冷戦初期の中、日本国と韓国は共にアメリカの庇護下で反共主義(自由主義)を旨とする西側諸国に属していた。しかしながら、李承晩は1910年の日韓併合以来一貫した反日・民族独立運動家であり、1948年7月20日に正式に成立した韓国の初代大統領として常に強硬な対日外交を行っていた。それでも李承晩ラインを発表した直後の1952年2月から日本の保守政権と韓国の李承晩政権とは国交樹立を目指した交渉を開始した。李承晩政権の強硬な反日姿勢のため両国間の溝は大きく、交渉はしばしば中断した。両国政府間の共同声明などにより韓国側は拿捕した日本人漁民の釈放に応じはしたものの、李承晩ライン自体は存続させ続け、1960年の李承晩失脚後もこの状態が続いていた。
なお、李承晩失脚当時、駐日アメリカ大使であったマッカーサーは国務省に機密電文3470号でこの問題の早期解決に動くべきこと、すなわち韓国政府に人質となっている日本人漁師を解放させること、韓国領海外の公海上で日本の漁船を拿捕する行為をやめさせること、竹島を日本に返還させること、を強く進言している[16]。
1963年10月15日、李承晩退陣後の政治的混乱を収拾した朴正煕が大統領に就任した。彼は工業化を進めることで国を富ませ、民族の悲願である南北統一を促進することを考えた。そのためには資本と技術を必要と考えた。しかし、大韓帝国時代と同様、朝鮮戦争後の荒廃した韓国には国際的信用力がなかったため資本を集めることが難しく、どこからどう調達するかが悩みの種であった。朴正煕大統領が目をつけたのが日本である。そのために日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)の締結を急いだ。一方、日本国政府も戦後処理の一環として韓国との国交回復は重要な外交テーマであり、李承晩ラインを撤廃させて安全操業の確保実現を求める西日本の漁民からの要望も受けていた。朴正煕政権は、竹島の領有権についての紛争を棚上げにすることで日韓基本条約の締結がなしえると判断したところで、その関係協定の一つである日韓漁業協定を締結した。この日韓漁業協定が締結された1965年6月22日[17]以降、相矛盾する李承晩ラインは自動的に無効・廃止とされた。
李承晩ラインを描いた作品
脚注
関連項目
外部リンク
- 李ライン問題に関する日本漁民拉致に対し韓国の反省を求める件(宣言) - 日本弁護士連合会
- ↑ 現在の日本では韓国・朝鮮人の氏名は韓国・朝鮮語読みにするのが慣例になっているが、当時は日本語の音読みにする慣例があった。金大中事件#脚注を参照。
- ↑ 日韓交渉を進めた大平正芳外相(当時)は『私の履歴書』[1]の中で「軍事境界線」としている。
- ↑ 竹島領有権問題について 自民党領土に関する特別委員会委員長石破茂 2006年5月16日
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 日本弁護士連合会 人権擁護大会宣言・決議集 1953年)
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 今日の歴史(1月7日) 聯合ニュース 2009/01/07
- ↑ 日本国との平和条約参照
- ↑ ウィーン条約法条約第28条[2]
- ↑ Proclamation 2668 - Policy of the United States with Respect to Coastal Fisheries in Certain Areas of the High Sea American Presidency Project September 28, 1945
- ↑ 11.0 11.1 11.2 テンプレート:Cite book
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ テンプレート:Cite journal
- ↑ テンプレート:Cite journal
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- ↑ テキサス親父日本事務局「竹島が日本の領土であるというマッカーサーからの電報」
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ あれが港の灯だ KINENOTE