大村憲司
テンプレート:出典の明記 テンプレート:Infobox Musician 大村 憲司(おおむら けんじ、1949年5月5日 - 1998年11月18日)は、日本のギタリスト、作曲家、アレンジャーである。
人物・来歴
その生
兵庫県神戸市出身。甲南高等学校を卒業後、1969年、ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストのロック部門で優勝[1]。 1970年にアメリカに渡り、フィルモア・ウェストのステージに立つ。1971年帰国し、上智大学国際学部[1]へ入学する一方、赤い鳥に参加。1973年に赤い鳥を脱退し、村上秀一らと「エントランス」を結成。続く1974年にバンブー、1975年にカミーノを結成。 1980年、YMOのサポートギタリストとして国内およびワールドツアーに参加。その後1980年代はアレンジャーとして山下久美子のヒット曲「赤道小町ドキッ」をはじめ、大江千里、本田美奈子などの楽曲を手がけている他、セッションギタリストとしても数多くの楽曲に参加。特に1980年代後半から1990年代前半にかけては後藤次利の作編曲作品(工藤静香、とんねるずなど)に頻繁に参加している。晩年は柳ジョージ、遊佐未森、宮沢和史などのツアーにサポートギタリストとして参加。またその卓越したギターテクニックや知識により『ギターマガジン』のエレクトリックギターのレビューを担当。「ギターを知り抜いた男」として試弾きし、インタビュー形式で適切な評価を与えていた。
1998年11月18日、肝硬変(アルコール性肝疾患)で死去。テンプレート:没年齢。
その死
都内で行われた葬儀には、村上"PONTA"秀一、山下達郎、Charなど縁のあるミュージシャン達が参列し、故人の突然の死を悼んだ。特にベーシストでプロデューサーの後藤次利の男泣きの姿が印象的であった。会場には大村が長年愛用していたクリーム色のフェンダー・ストラトキャスターが置かれ、その情景が何とも言えない悲しさを誘った。彼の死後「外人天国」や「KENJI SHOCK」などのオリジナルアルバム作品は紙ジャケットCD版で限定再発売され、ファンへのささやかな贈り物となった。1998年12月、渋谷Bunkamuraオーチャードホールにて大貫妙子の「PURE ACOUSTIC CHRISTMAS」コンサートに参加予定であったが、大村の死により翌年3月に延期(振り替え公演の際のギタリストは山弦の小倉博和)。大貫は大村の死にショックを隠せなかったと後の振り替え公演・ステージ上で語った。
大村が息を引き取った夜は、ちょうど獅子座流星群が極大の日で、しかも、その夜流れた流星の中でも最大の「火球」が観測された。そのまさに火球が観測された時間に息を引き取ったということで、後に高中正義はアルバム"Walkin'"に「獅子座流星群」という曲を収録した。またCharも"The night of Leonid"という曲を大村に捧げている。遺品のギターの内、晩年まで愛用していたギター、フェンダー・ストラトキャスター・エリック・クラプトンモデルを、後に近藤房之助が大村夫人から「形見の品」として譲り受け、現在も使用している。
エピソードなど
ディスコグラフィ
アルバム
- 『ファーストステップ』
- 『KENJI-SHOCK』
- 『春がいっぱい』
- 『外人天国』
- 『Left-Handed Woman』
- 『Leaving Home』
- CAMINO 『Deep Inside of CAMINO』
- CAMINO 『LIVE 1976』
シングル
- 『けんじの春がいっぱい』
- ジャケットのタイトルは上記『春がいっぱい』からのシングルカット。
参加アルバム
- 高橋幸宏[2]
- 『A sigh of Ghost』
- 『サラヴァ!』
- 『音楽殺人』
- 『NEUROMANTIC』
- 大貫妙子 『SUNSHOWER』
- 大江千里
- 坂本龍一&カクトウギセッション 『Summer Nerves』
- YMO 『増殖』
- 矢野顕子 『ごはんができたよ』
- 深町純 『Introducing Jun Fukamachi』(1975年)
- 『New York』(1978年)
- 沢田研二 『HELLO』、『sur←』、『愛まで待てない』
- ギター、編曲、作曲者として参加
- 飯島真理 『Rosé』、『Coquettish Blue』
外部リンク
脚注
- ↑ 1.0 1.1 YMO WORLD TOUR '80 FROM TOKYO TO TOKYO 国内コンサート・パンフレット 1980年12月
- ↑ http://www.1101.com/omura/2003-07-31.html