左宗棠
左 宗棠(さ そうとう、1812年11月10日 - 1885年9月5日)は、清朝末期の著名な大臣。太平天国の乱の鎮圧に活躍し、洋務派官僚としても有名。中国では「清代最後の大黒柱」と非常に高い評価を受けている(文化大革命期に太平天国が持ち上げられると、逆に評価が下がったこともある)。
字は季高、湖南省湘陰県の出身である。老亮と号する。自らを清末の諸葛亮(孔明)と称していた。1832年に科挙で挙人の資格を得たが、進士には合格しなかった。このため、湖南で家塾の師となり、歴史や地理の研究に没頭していたが、1850年に太平天国の乱が勃発すると、胡林翼の推挙で湖南巡撫張亮基・駱秉章の幕府に入り、楚勇を組織して太平軍の攻撃から長沙を守った。
その後も、諸省を転戦して軍功を立て、曽国藩の推薦で1863年浙江巡撫となった。イギリスやフランスと協力して、金華・紹興などを奪回し、閩浙総督に昇進した。1864年には杭州を奪回し、その後は東南部の太平天国の残党の掃討にあたった。曽国藩や李鴻章らとともに、軍備強化のため、洋務運動を推進し、福州船政局などを創設した。
その後、1866年には陝甘総督に転任して、捻軍やドンガン人(回族)の蜂起(回民蜂起)を鎮圧した。1875年、左宗棠は欽差大臣に任命され、ヤクブ・ベクの乱により清朝の支配力が弱体化した新疆の軍務を担当し、新疆を奪回した。左宗棠はロシアに対する陸上の備えの重要性を主張する塞防派の代表格であり、イギリスに対するために海軍を重視する海防派の代表格である李鴻章とは政治的に対立関係にあった。新疆に関しても、弱体化した支配を立てなおそうとする左宗棠と、海軍に集中するために防衛の難しい新疆をロシアに割譲しようとする李鴻章との間では意見の相違があった。
清朝の重臣として軍機大臣、両江総督兼南洋大臣、東閣大学士の要職を歴任。 1884年8月 - 1885年4月、清仏戦争では欽差大臣として福建省沿岸の防衛を任命された。1885年、福州で病死。
著書に『左文襄公全集』がある。
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