ロバート・プラント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年7月15日 (火) 21:33時点における60.62.156.41 (トーク)による版
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:独自研究 テンプレート:出典の明記 テンプレート:Infobox Musician ロバート・アンソニー・プラント(Robert Anthony Plant CBE, 1948年8月20日 - )は、イギリスロックシンガー。レッド・ツェッペリンヴォーカリストとして特に有名である。レッド・ツェッペリン時代のニックネームは、「パーシー」。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第15位[1]。身長185cm。

イギリスの音楽雑誌「Q誌の選ぶ歴代の偉大な100人のシンガー」において第8位[2]

経歴

レッド・ツェッペリン加入以前

バンド・オブ・ジョイなど、様々なバンドで活動。リッスンというバンドで1枚、ソロで2枚のシングルを発表しており、太い声、圧倒的な声量を聴かせていた。商業的に成功しなかったため、土木工事のバイトをしながら音楽活動を続けており、父のように会計士になることも考えていた。

ヤードバーズのメンバーが脱退し、ヴォーカリストを捜していたジミー・ペイジは、テリー・リードの紹介によりバーミンガムで「ホブストウィードル」のシンガーとしてステージに立つプラントに出会う。ペイジはその歌を聴いてプラントに興味を抱き自宅へと招待(ペイジ曰く、「人間性を確認するため」)。新バンドのサウンド・アイデアを語り合い、バンドを組むことを決める。同時にプラントからジョン・ボーナムを推薦され、更に当時既にアレンジャーとして名を成していたベーシストのジョン・ポール・ジョーンズを加えた4人は、幾つかのセッションを経た後、「ニュー・ヤードバーズ」としてツアーを開始。スカンジナビア・ツアーの後、その名前をレッド・ツェッペリンと改める。

レッド・ツェッペリン活動期

ファイル:Robert-Plant.jpg
レッド・ツェッペリン時代のロバート・プラント

テンプレート:Main

その派手な外見やオフ・ステージでの型破りな行動から彼らを認めないものは多く、音楽雑誌「ローリング・ストーン」は彼らを「イギリスのレモン絞り[3]」と呼んでいたが、結果としてバンドは極めて大きな人気を得、その活動は多忙を極めた。

プライベートでは、ツェッペリン結成前より同棲していたインド系の女性モーリーンと1969年に結婚、すぐに子供も誕生。映画「永遠の詩 レッド・ツェッペリン狂熱のライヴ」では、1973年当時の豪邸の巨大な敷地内で妻と子供2人に囲まれて幸せそうなロバートを観ることができる。しかしながら、周囲では暴力事件や麻薬常用などが後を絶たず、健康上の理由や事情聴取などでツアーがキャンセルされることも起こるようになった。1975年8月4日にはギリシャロードス島でレンタカーを運転中に交通事故に遭い、1975/1976年ツアーが中止されることとなる。1977年のアメリカ・ツアー終盤には、息子のカラックをウィルス感染症で亡くしている。

そして、1980年のジョン・ボーナムの死と共に、ツェッペリンはその活動の幕を閉じる。

解散後とソロキャリア

ツェッペリン解散の2年後、プラントはソロ活動を始める。ハードロックに別れを告げ、独特の新しいスタイルを志向した。82年のデビューアルバムから90年までの各アルバムは全米トップ20に入り[4]、アリーナクラスでのツアーも盛況であった。しかしながら、ソロキャリアにおいてのレッド・ツェッペリン楽曲、特に「天国への階段」は過去の栄光を象徴するためか、歌詞の出来が気に入らないとしてライブ演奏を嫌っており、滅多に演奏をしていない。1984年の2月に日本でコンサートツアーを行った際にも、ソロ・アルバムからの曲ばかりであり、ツェッペリンの曲を全くやらなかった。プラントはツェッペリンとしての過去に誇りを抱きつつも、その過去に縛られず、新しい音楽を創造していったのである。その後もプラントは様々な音楽に関心を示し、1993年のアルバム『フェイト・オブ・ネイションズ』以降はアラブ音階やフォークなども取り入れている[5]

1994年にはペイジと共にジミー・ペイジ & ロバート・プラントとして活動、2001年からはロバート・プラント & ストレンジ・センセイションとして精力的に活動を続けている。

2007年10月には、ブルーグラスカントリー・ミュージックシンガー、アリソン・クラウスとのコラボレーション・アルバム『レイジング・サンド』をリリース。2008年5月末まで、彼女とライヴを行う。このアルバムの収録曲「Gone Gone Gone(Done Moved On)」は、第50回グラミー賞のベスト・ポップ・コラボレーション・ウィズ・ヴォーカル部門を受賞した[4]

2008年1月に、ペイジが来日記者会見で「レッド・ツェッペリンの再活動は、ロバート・プラントが9月まで別の仕事が入っていて、その後に」と話した。

2009年2月8日の第51回グラミー賞でも、前年に引き続き『レイジング・サンド』がノミネートされ、主要5部門のレコード・オブ・ザ・イヤー及びアルバム・オブ・ザ・イヤーを始め、5部門で受賞した[4]

2009年、音楽界への貢献が認められ、CBEを授与されることが発表された。同年7月10日バッキンガム宮殿にてチャールズ皇太子から授与された[6]

歌唱法

ツェッペリンでのハイトーン、パワフルでワイドレンジなボーカルは、音楽界に衝撃を与え、ツェッペリンはたちまち世界のトップバンドとなった。ボーカルスタイルの一つのあり方を確立し、以後のロック、ハードロック、ヘヴィメタルの歌唱法に多大な影響を与えた。 フレディー・マーキュリースティーヴン・タイラーボン・スコットデイヴィッド・カヴァデールなどの同世代のロックボーカリストから、アクセル・ローズクリス・コーネルセバスチャン・バックジャスティン・ホーキンスジャック・ホワイトなど、後の世代のボーカリストにも影響を与えている。

ジミー・ペイジは「もし声帯を使ったオリンピックみたいなものがあれば、間違いなく全種目金メダル」と評している。(ちなみに、ローリング・ストーンズキース・リチャーズは「俺の耳にはいささかアクロバットじみて聴こえる」と彼を評している。) しかしながら、長いツアー生活による酷使により、喉を痛めてかつてほどの高音は出せなくなり、1972年のUSツアー以降からは楽曲によりキーを下げて歌っている。

胸いっぱいの愛を」の歌唱でスモール・フェイセススティーヴ・マリオットの影響がみうけられる。彼のおっかけをしていた時期があったらしい。また、インタビューで、エルヴィス・プレスリーをアイドルに挙げている。ハニードリッパーズ時代の「シー・オブ・ラブ」などで、その影響が垣間見える。

70年代を代表するセックスシンボル

プラントはそのルックス、声、ステージパフォーマンスから70年代を代表するセックスシンボルと称された。特に、70年代前半のステージでは、女性ものの服やインド・中近東風の服の前をはだけて歌う姿は、その金色の長髪とあいまって「ロック界のアイコン(象徴)」と言われていた。

歌詞世界

最初期における彼は、「胸いっぱいの愛を」(『レッド・ツェッペリン II』)、「レモン・ソング」(『レッド・ツェッペリン II』)に代表されるようなブルースからの引用や「ユー・シュック・ミー」(『レッド・ツェッペリン I』)、「君から離れられない」(『レッド・ツェッペリン I』)などのカバーが多かったが、『レッド・ツェッペリン III』から徐々に本格的な作詞に着手するようになり、特に『レッド・ツェッペリン IV』の「天国への階段」は高く評価されている。(しかしながら、本人は「天国への階段」を頂点とは考えておらず、歌詞に不満があると発言している)。

プラントはファンタジーを愛好し、特にJ・R・R・トールキンの著書、主に『指輪物語』の影響が見られる。(「限りなき戦い」(『レッド・ツェッペリン IV』)や「ランブル・オン」(『レッド・ツェッペリン II』)、「ノー・クォーター」(『聖なる館』)など) また、ケルト民話や北欧神話に対する造詣が深く、「移民の歌」(『レッド・ツェッペリン III』)、「流浪の民」(『フィジカル・グラフィティ』)などの歌詞にも表れている。

身近な事象に対する心情を表現することも多く、妻に向けた「サンキュー」(『レッド・ツェッペリン II』)や、初恋を歌った「テン・イヤーズ・ゴーン」(『フィジカル・グラフィティ』)、愛犬に向けた(愛犬の名前はストライダー)「スノウドニアの小屋」(『レッド・ツェッペリン III』)、ファンに感謝を捧げた「オーシャン」(『聖なる館』)、亡き息子に捧げた「オール・マイ・ラブ」(『イン・スルー・ジ・アウトドア』)、その他「一人でお茶を」(『プレゼンス』)、「アイム・ゴナ・クロール」(『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』)、など。 70年代を反映したような曲として「祭典の日」(『レッド・ツェッペリン III』)や「ダンシング・デイズ」(『聖なる館』)、「カリフォルニア」(『レッド・ツェッペリン IV』)等々。 また、音楽に対する情熱は、アフリカ民族音楽にもその関心を向け、「カシミール」(『フィジカル・グラフィティ』)を生むこととなる。 1994年のペイジ・プラントでの『ノー・クォーター』は、モロッコの民族音楽を取り入れている。

エピソード

  • 映画『あの頃ペニー・レインと』で、主人公がツアーを共にするバンドのギタリスト、ラッセル(ビリー・クラダップ)の台詞「俺は黄金の神だ!!(I Am A Golden God!!)」は、プラントがロサンゼルスのハイアット・ホテル(通称「ライオット・ハウス」)のテラスから叫んだものだという。当時、ロック・ライターだったキャメロン・クロウが耳にし、後に映画で使用したというのがその顛末である。
  • 一部では、映画の永遠の詩の頃にはもう天国への階段のラストを歌いきれなかったという意見もあるが、レコードを聴けば確認できる通り、彼は天国のラストでほぼフェイクをしていない。

ディスコグラフィ

日本公演(ソロ)

  • 1984
  • 2014 SUMMER SONIC 14

脚注

テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:Navbox Musical artist
  1. テンプレート:Cite web
  2. テンプレート:Cite web
  3. これはプラントが「胸いっぱいの 愛を」「幻惑されて」などの間奏パートでよく歌った「レモン・ソング」のフレーズの一部「俺のレモンを絞って(=性行為の暗喩)」を実際の乱痴気騒ぎに準えて言ったもの。自身は、ツェッペリンの乱行に関する噂を一切否定している(プラントによれば、「自分達はイエスみたいにライブが終わったら部屋にこもって音楽を聴いていた」)。
  4. 4.0 4.1 4.2 Robert Plant - Awards : AllMusic
  5. テンプレート:Cite web
  6. ロバート・プラント、ポニーテールにて皇太子より勲章を授与