朝鮮貴族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
朝鮮貴族(ちょうせんきぞく)は、貴族制度の一種で、李王の血族で王公族とならなかった者及び門地又は功労があった朝鮮人に与えられた身分[1]。1910年(明治44年)の日韓併合条約第5条及びそれに基づく朝鮮貴族令(明治43年皇室令第14号)によって設けられたもので、1947年(昭和22年)皇室令第12号(皇室令及附属法令廃止ノ件)によって廃止された。
目次
日本華族に準じた朝鮮貴族
韓国(李氏朝鮮)には、日本の五摂家や徳川宗家に相当する家格が存在しなかったため、朝鮮貴族に公爵は置かれず、侯伯子男の四爵に分類された。そして、華族と同一の礼遇を享け、叙位についても華族と同一に取り扱われるなど、従来の日本の華族令による華族とほぼ同様に扱いがなされた。但し、東京在住が義務付けられず、貴族院の有爵者議員となる資格はないなど、華族と違う取り扱いもなされた。朝鮮貴族令制定当時は76名の朝鮮貴族が爵位を受けた。
朝鮮貴族に列せられた者
侯爵
- 李載完
- 興宣大院君の甥。
- 李載覚
- 荘献世子の玄孫。
- 李海昌
- 昌山君。
- 李海昇
- 全渓大院君の玄孫。
- 尹沢栄
- 海豊府院君。純宗の舅。
- 朴泳孝
- 哲宗の壻。宮内府大臣。併合後、1926年(大正15年)に中枢院議長、1932年(昭和7年)に貴族院議員となる。
- 李完用
- 李允用男爵(朝鮮貴族)の弟。1907年(明治40年)に内閣総理大臣に就任する。同年第三次日韓協約に調印する。1909年(明治42年)12月に李在明のテロに遭うが、命拾いする。1910年(明治43年)8月13日、寺内正毅から韓国併合決定を伝えられた場で、韓国の名称を残すように要望するが拒否される。8月22日に韓国併合ニ関スル条約に調印する。併合時の伯爵より陞爵して侯爵となった。
伯爵
- 李址鎔
- 内部大臣。
- 閔泳璘
- 併合後の1919年(大正8年)に阿片煙吸食罪で爵位を褫奪される。
- (李完用)
- 併合時に伯爵となるが後に陞爵して侯爵となる。
- 宋秉畯(野田秉畯)
- 日韓の融和に努めた功績により没後に正三位勲一等が追贈される。併合時の子爵より陞爵して伯爵となった。襲爵した子の宋鍾憲(野田鍾憲)伯爵は後に貴族院議員となる。
- 高羲敬
子爵
- 李完鎔
- 李埼鎔
- 1945年(昭和20年)4月に貴族院議員となる。
- 朴斉純
- 朴冨陽
- 朴斉純の相続人。1916年9月30日襲爵[2]。
- 高永喜
- 趙重応
- 閔丙奭
- 李容稙
- 金允植
- 権重顕
- 1907年(明治40年)に羅寅永らのテロに遭うが、命拾いする。
- 李夏栄
- 李根沢
- 任善準
- 李載崑
- 尹徳栄(尹德榮)
- 日韓併合後、貴族院議員となる。
- 趙民熙
- 李秉武
- 1894年(明治27年)に来日し、日本の陸軍士官学校を卒業する。1907年(明治40年)には李完用内閣の軍部大臣臨時署理侍従武官長となる。1909年(明治42年)に親衛庁長官兼侍従武官長となる。併合後も、朝鮮軍人として陸軍副将の階級を保持し続け、1920年(大正9年)4月26日に陸軍中将となる。
- 李根命
- 1916年6月11日死去[3]。
- 李忠世
- 李根命の相続人。1916年9月30日襲爵[2]。
- 閔泳奎
- 1906年(明治39年)に議政府議政大臣となる。
- 閔泳韶
- 1917年3月10日死去[4]。
- 閔泳徽
- 金聲根
- (宋秉畯)
- 併合時に子爵となるが、後に陞爵して伯爵となる。
男爵
- 尹用求
- 1912年12月6日、爵位を返上[5]。
- 金奭鎮
- 併合後、1910年10月10日[6]に麻薬の阿片を飲んで自殺する。
- 韓昌洙
- 併合後、李王職長官となる。
- 李根湘
- 趙羲淵
- 爵位を受けた後返上する。
- 朴斉斌
- 成岐運
- 金春熙
- 趙同熙
- 1921年(大正10年)爵位を褫奪される。
- 朴箕陽
- 金思濬
- 1915年11月9日に爵位を褫奪される[7]。
- 張錫周
- 新聞記者出身。
- 閔商鎬
- 趙東潤
- 併合前は侍従武官長。併合後も朝鮮軍人として陸軍副将の階級を保持し続け、1920年(大正9年)4月26日に陸軍中将となる。1923年(大正12年)5月21日死亡する。
- 崔錫敏
- 1915年12月21日死去[8]。
- 崔正源
- 崔錫敏の家督相続人。1916年3月20日襲爵[9]。
- 韓圭卨
- 第二次日韓協約締結時の首相。1912年12月6日、爵位を返上[5]。
- 南廷哲
- 1916年6月30日死去[10]
- 南章熙
- 南廷哲の相続人。1916年9月30日襲爵[2]。
- 李乾夏
- 1913年11月7日死去[11]
- 李乾八
- 李乾夏の家督相続人。1913年12月20日襲爵[12]。
- 李容泰
- 閔泳綺
- 李鍾健
- 李鳳儀
- 尹雄烈
- 別技軍左副領官となり新式軍隊による朝鮮国の自存を確保しようと願うが、壬午事変により一時期亡命を余儀なくされる。1911年9月22日死去[13]。
- 尹致昊
- 尹雄烈の子。父の死去に伴い男爵を襲爵。1913年10月9日、失爵[14]。
- 李根澔
- 金嘉鎮
- 受爵後に爵位を返上する。
- 鄭洛鎔
- 1914年2月1日死去[15]。
- 鄭周永
- 鄭洛鎔の家督相続人。1914年3月19日襲爵[16]。
- 閔種默
- 1916年7月20日死去[17]
- 閔哲勳
- 閔種默の相続人。1916年9月30日襲爵[2]。
- 李載克
- 1919年(大正8年)に李王職長官となる。
- 李允用
- 李完用伯爵(朝鮮貴族)の兄。
- 李正魯
- 金永哲
- 李容元
- 1911年8月16日死去[18]
- 李原鎬
- 李容元の家督相続人。1911年10月19日襲爵[19]。
- 金宗漢
- 趙鼎九
- 金鶴鎮
- 朴容大
- 金思轍
- 金炳翊
- 李胄栄
- 鄭漢朝
- 1917年5月28日死去[20]
- 閔炯植
- 洪淳馨
- 1912年12月6日、爵位を返上[5]。
- 兪吉濬
- 併合に抗議して、1912年12月6日、爵位を返上[5]。
- 閔泳達
- 1912年12月6日、爵位を返上[5]。
- 趙慶鎬
- 1912年12月6日、爵位を返上[5]。
大韓民国独立後の評価
乙巳五賊
朝鮮貴族の中でも韓国で嫌われている乙巳五賊と呼ばれているものがいる。1905年の第二次日韓協約の手助けをしたとされている閣僚のことを指している。メンバーは当時の役職で李完用(学部大臣)、李址鎔(内部大臣)、李夏栄(法部大臣)、権重顕(農商工部大臣)、李根沢(軍部大臣)の五人である。李夏栄の代わりに朴斉純(外部大臣)になる場合もある。
丁未七賊
朝鮮貴族の中でも韓国で嫌われている丁未七賊と呼ばれているものがいる。1907年の第三次日韓協約締結時の閣僚のことを指す。乙巳五賊のひとりであった李完用(内閣総理大臣)、任善準(内部大臣)、高永喜(度支部大臣。財務大臣に相当)、李秉武(軍部大臣)、李載崑(学部大臣)、宋秉畯(農商工部大臣)、趙重応(法部大臣)の七人である。