佐々木惣一
佐々木 惣一(ささき そういち、1878年(明治11年)3月28日 - 1965年(昭和40年)8月4日)は、日本の憲法学者、行政法学者。正三位勲一等。法学博士。貴族院議員。京都大学名誉教授。京都市名誉市民。
概要
鳥取市西町に生まれる[1][2]。県尋常中(現鳥取西高)、四高を経て京都帝大に法学を学び1903年(明治36年)卒業、直ちに同大学の講師、次いで1906年に助教授、1913年に教授となり、行政法を講じた[1]。さらに、1927年からは退官した市村光恵に代わって憲法も担当するようになった。行政法における師匠は織田萬であり[3]、憲法における師匠は井上密である[4]。1921年(大正10年)以来二回法学部長に挙げらる[5]、。
厳密な文理解釈と立憲主義を結合した憲法論を説き、東の美濃部達吉とともに、大正デモクラシーの理論的指導者として活躍し、弟子の大石義雄とともに憲法学における京都学派を築いた[6]。1933年(昭和8年)「滝川事件」に抗議して辞職[6]。同事件では法学部教授団の抗議運動の中心として活動するなど、大学自治の擁護に努めた[6]。
1945年(昭和20年)には内大臣府御用掛として憲法改正調査に当たり、いわゆる「佐々木憲法草案」を作成している[1]。 その後は、貴族院における日本国憲法の改正審議に参画し、日本国憲法への改正に反対した。[7]
人物像
学者としての信念
佐々木惣一の生涯は、学問の自由を守るための闘いであったといっても過言ではない[8]。その学者としての態度は1922年(大正11年)、彼が鳥取中学校『創立五十年』に送った文章の中にも見られる[8]。
- 「我々は中学時代から久しく何でも偉くなろうと志した[8]。しかし偉いとはどんなのかということについては今日ようやく気がつくようになったのである[8]。…シルクハットをかぶり、大礼服を着、金持となり、華族となることが出来るようになればなるほど、それだけ正しい人となることが出来なくなるのだと思うことすらある[8]。今の私にとっては正しい人が最も偉い人なのである[8]。」
人柄・性格
年譜
- 1878年(明治11年)
- 1903年(明治36年)
- 1906年(明治39年)
- 10月 - 京都帝国大学法科大学助教授[9]
- 1909年(明治42年)
- 1921年(大正10年)
- 4月 - 京都帝国大学法学部長[9]
- 1934年(昭和9年)
- 1939年(昭和14年)
- 12月 - 帝国学士院会員[9]
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)
- 3月 - 貴族院議員[9]
- 1965年(昭和40年)
- 8月4日 - 死去
賞
史料
- 父母への手紙
第四高等学校に入学し、金沢から郷里の両親に送った佐々木自筆の書翰から要点を適載する。手紙は先づ両親が家道困窮のうちに、高等学校へ進学さしてくれたことを感謝し、(以下原文のまま)
- …三年の此学校を卒業致し候はば仮令ひ大学校に入ること出来申さずとも、月に二十五六円の月給を取って御一同様を養ひ申し、今日までの海より深き御恩に報じ、山よりも高き不孝のつみを御わび申上ぐべく候[10]。後をたのしみとして決して御病気などにかからせられざる様御大切になし下されたく候[10]。(中略)先日はまことに相すみ不申候義とは存じ候へ共、こまり候まま御無理御願ひ申上候ところ、早速御送金を辱ふし難有御礼申上候。さぞ困難遊ばされた御ことと奉恐縮候[10]。
- 殊に親せき一どうへも御しんがいのこと此上なく中学卒業以来一文も金もうけせずしてただ種々の御しんぱいを相かけ申候ことのみ、是も全く後の事をおもひ候故にて今九円の月給を取る時はいま一時は都合よく相見え候へども、十年後になりて家族などもふえ来るときはまたまた大なんぎして御一同様をなぐさめ申上ぐること出来不申、従っていつも中以下のくらしをせねばならぬことと考え候故に御坐候間不孝の罪不悪御免被下度候[11]。
- (中略)母上様にはやはりザイへ玉子買に御出あそばされるや[11]。ああ六十有余の父上[12]には遠きみちを魚町までかよはせられ、かねて病身の母上様には、この寒さにも拘らず、ざいへ出られ其留守をさびしく八十に余り玉へる御老母様がひとりまもり遊バされ候[11]。何とぞ御大切に御保養う平に祈候(中略、この間、金沢の風物、能、芝居、四高の内容、在金沢の鳥取県人の動静に加えて、旅次大水害に会い困難を極めた顛末などを詳述している)、以上記したはただありの侭に候へ共御笑覧被下度候[11]。非常に困難せし如く見え候へ共、二人ともすこしもさわりなく、あんおんにつく為め、日数と金銭をおしまず、一向にあやうきに近よらずして着仕候間すこしもそのがいをうけ不申候間御安心被下度候[11]。
- 十月十二日夜八時認め終る
- 惣一拝
- 御一同様
- 十月十二日夜八時認め終る
著書
- 『立憲非立憲』(弘文堂書房、1918年)
- 『日本憲法要論』(金刺芳流堂、1930年)
- 『帝国憲法改正ノ必要』1945年11月24日(日付は11月23日)に天皇に奉答した改正案
参考文献
- 『新日本人物大観』(鳥取県版) 人事調査通信社 1958年 サ…345-346頁
- 『鳥取県百傑伝』 1970年 224-230頁
- 『鳥取県大百科事典』(編集・新日本海新聞社鳥取県大百科事典編集委員会)1984年 363頁
- 松尾尊兌「敗戦前後の佐々木惣一 ―近衛文麿との関係を中心に―」(『人文学報』98号、2009年)
関連項目
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 『鳥取県大百科事典』363頁
- ↑ 2.0 2.1 三浦百重(鳥取大学学長、鳥取市名誉市民)によれば、「先生は明治十一年三月鳥取市西町十一番地に生まれたとその履歴書(注・京都市作製)にはなっているが、この点は、私の聞いた限りでも巷間諸説があり、中には近郊の生まれで幼時両親に伴われて鳥取市に移り、その後も数次居を転じた為め諸説が生じたのであると云う人もある。いま之を明らかにする途はないが狩野教授が佐々木先生から直接依頼されて作った“夢松菴記”のうちに…教授(注・佐々木先生)曰吾郷有山曰久松其麓吾幼時居也…(注・吉川教授編―君山文巻五)とあることによっても、郷里は鳥取市としてよいであろう。」という(『鳥取県百傑伝』、224頁))
- ↑ 佐々木惣一「織田萬博士の追憶」(公法研究一八号)
- ↑ 佐々木惣一の立憲主義論と自由主義思想の展開
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 『第廿一版 人事興信録 上』昭和36年(1961年)、さ一三
- ↑ 6.0 6.1 6.2 人物紹介 | 日本国憲法の誕生
- ↑ 松尾尊兌「敗戦前後の佐々木惣一 ―近衛文麿との関係を中心に―」(『人文学報』98号、2009年)
- ↑ 8.0 8.1 8.2 8.3 8.4 8.5 『鳥取県郷土が誇る人物誌』263頁
- ↑ 9.00 9.01 9.02 9.03 9.04 9.05 9.06 9.07 9.08 9.09 9.10 9.11 9.12 9.13 9.14 京都市名誉市民 佐々木惣一氏
- ↑ 10.0 10.1 10.2 『鳥取県百傑伝』228頁
- ↑ 11.0 11.1 11.2 11.3 11.4 『鳥取県百傑伝』229頁
- ↑ 魚問屋勤務