ヨハネス・ユストゥス・ライン
テンプレート:参照方法 ヨハネス・ユストゥス・ライン (Johannes Justus Rein, 1853年1月27日 - 1918年1月23日) は、ドイツの地理学者並びに日本専門家。
経歴
ヘッセンのラウンハイムに生まれ、ギーセン大学において植物学並びに科学を勉強した。その後フランクフルト・アム・マイン、ドルパート及びバミューダ諸島で教職に就き、イギリスも訪問した。
1874年(明治7年)、プロイセン王国政府の命により、日本の工芸調査を名目に来日。工芸研究のかたわら、北海道を除く日本各地を旅行し、地理や産物を調査する。ラインを日本に送りこんだプロイセン政府の意図は、「当時ヨーロッパで人気のあった漆器をプロイセンでつくる」「堅牢な塗料としての漆を兵器のサビ止めとして利用する」ために、ウルシノキを持ち帰らせようというものであった。結果としてこの目論みは失敗に終わった。
同年7月、白山の自然と白山信仰について調べるために白山登山を行う。その帰路に石川県白峰村(現白山市)に立ち寄り、手取川右岸の当時「大崩れ」と呼ばれていた地点で、十数個の植物の化石を拾い、友人のガイラー (H. Th. Geyler) に調査を依頼した。ガイラーは、この化石がジュラ紀中期ごろのものであることをつきとめ、1877年に論文にまとめ発表した。この地点はのちに桑島化石壁と呼ばれ、1957年(昭和32年)に手取川流域の珪化木産地として国の天然記念物の指定を受けた。また、化石壁の裏側をくりぬいて作られたトンネルには、ラインの功績を称え「ライントンネル」の名が与えられている。
1876年(明治9年)に帰国し、マールブルク大学地理学教授に就任。1883年にボン大学地理学教授に就任。西園寺八郎(西園寺公望の娘婿)ら、多数の日本人留学生の世話をした。ボンで没した。
著作
- 『日本』第1部 自然誌(1881年発行)・第2部 産業史(1886年発行)
- 『みかどの国の自然と国民』(1881年発行)
参考資料
『ライン祭記念誌復刻版』平成4年発行 ライン博士顕彰会(白峰村役場内)
著書
- Japan nach Reisen und Studien im Auftrage der Königlich Preussischen Regierung. 2 Bände. Leipzig: Engelmann 1881/86. 2. Auflage des 1. Bandes Leipzig: Engelmann 1905.(ドイツ語)